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【千代田区】大久保公哀悼碑と襲撃現場までの道のり

https://note.com/aratanamai/n/ne9de107e0a44

前回は大久保利通のお墓に行ってきました。
今回は大久保哀悼碑とその襲撃ルートを追ってみました。


バブル期の地図。青色が現在地。
清水谷公園の案内

明治11年 1884年5月14日 午前8時30分 明治天皇への謁見の為に自宅から赤坂御所に向かっていたところ、清水谷で石川県の元士族6人によって襲撃され亡くなります。

慰霊碑のある場所は清水谷公園となっています。
池もあり、整備された綺麗な公園です。
贈右大臣大久保公哀悼碑

事件の10年後に紀尾井坂に建立されたのがこの哀悼碑です。

碑は門扉もあり入れないようになっています。青山霊園のお墓より綺麗にされているような印象でした。

死後に右大臣の称号をおくられたので、贈右大臣となっています。

公家でない人が右大臣になっているのは数すくなく、源実朝、徳川家康、豊臣秀頼、数人の徳川将軍のみです。

大久保は彼らと肩を並べているということになり、当時の日本の実質的な最高権力者だったといえるでしょう。


暗殺現場には諸説があって

●この清水谷公園近辺で襲撃されたという説(死後すぐに発刊された書籍 故参議兼内務卿大久保利通公略伝 )

●現在の参議院宿舎前で襲撃された説(Wikipedia)

●喰違見附から清水谷に下る坂で襲撃された説(千代田区ホームページ)がみうけられます。

ここではWikipediaにあった現在の参議院宿舎前で襲撃された説を追ってみたいとおもいます。

故参議兼内務卿大久保利通公略伝 では逃げ延びた従者は、逃げて紀尾井坂を登り切って赤坂御所の裏門に助けをもとめたとも、引き返して宮内省用地の表門の護衛に助けを求めたもと書かれていました。

当時の地図。 赤坂御門の横を通る道はクランク上になっているうえに狭いことがわかると思います。
現在のプリンス通りを通ったほうがルートとしては自然のように見えます。

明治9~19年の地図

当時は清水谷のこの場所に来るには国道246号もなく、弁慶濠にかかる弁慶橋もなく、赤坂御門からの道が狭く、馬二頭の馬車が通るには不便のようにおもえます。

直進して左折して紀尾井坂をくだったほうがスムーズでしょう。(なにがなんでもプリンス通り北上ルートを推したいです)

弁慶濠の夕暮れ 綺麗ですね。

大久保邸から現場に至るまでのルートを辿っていきたいと思います。

明治9~19年の大久保邸から現場までの移動ルート

当時の大久保邸は現在の国会議事堂敷地内の南側にあります。

現場までのルートは

1・ここを出発して北側にいくとドイツ公使邸
2・左折してまっすぐ行くと宮内庁用地になりそこを右折し坂を登る
3・貝坂通りを少し進むか貝坂通りに入る前に左折し、現在のプリンス通りを北上。
4・北白川宮邸の前を通り十字路を左折
5・坂を下ると現場となります。

ではスタートしましょう。

総理官邸前

まずは大久保邸があった国会議事堂南側から出発します。総理官邸と国会議事堂の間ですのでお巡りさんはたくさんいて日本一安全な場所です。

国会議事堂の西の道路

道路を真っ直ぐ北上します。現在は右手に国会議事堂が見えます。突き当りは当時はドイツ公使館でした。現在は国会図書館前の交差点あたりになります。

国会図書館前の交差点 

当時は十字路ではなく突き当りです。ここを左折。

国会図書館前を西に

道なりにいくと246号ですが当時はありませんので白い建物の道路を左折

現在の議長公邸がみえます。この十字路を右折

左折するとけっこうな下り坂になります。先は十字路です。白い壁は現在の衆参両院議長公邸ですが、当時は宮内省用地。

このあたりも地形的に馬車移動するなら動きがとりにくく、襲撃スポットになるかと思いましたが、十字路であることと隣が宮内省用地ということで、襲撃するには不向きかと。

右折するとだらだらとした上り坂です。

議長公邸東の坂を登ります。
246号に突き当たるけれど、当時はないので直線し、貝坂通り

当時は向こう側の貝坂通りとここは道続きでした。
現在は246号に分断されています。

貝塚通りをしばらく直進するか、貝塚通前で左折し、しばらくすすんで右折するとプリンス通りになります。
ルートはそのどちらかだとおもいます。

もしかすると貝坂通りは通らずに西に向かってプリンス通り
プリンス通りに入ったらを北上

改めて当時の地図をみると、赤坂御門の横は狭いです。馬車が通れるかどうか…大久保さん、あなたはこの道を通ったのでしょうか?

李王家邸 昭和3年建築

李王と梨本宮王女(渋谷の宮下公園近辺)との結婚の際に建てられた建物。
こちらはこちらで非常に興味深い建物です。目の前の通りのプリンス通りの語源だと思います。

当時はこの場所は北白川宮邸でした。

大久保襲撃時に逃げ延びた従者がここに助けをもとめました。(という説を今回は支持しています)

プリンス通りを直進
紀尾井町交差点

事件当時からある交差点を左折

だらだらした下り坂をくだります。茶色の建物が参議院麹町宿舎南棟 ここが現場と考えます。
襲撃現場となる場所。
参議院麹町宿舎

現場は曲がった谷の部分。
当時は宿舎は華族 芳川邸の崖、南側は池。
十字路になるのは先で前から襲撃されたら、踵を返して逃げるのも困難。
この場所で襲撃されたら助けを求めるのは通ってきた北白川宮邸が妥当な所。

襲撃は6人で連座して服役した人も何人かいるようですが、その記録は探し当てられませんでした。

ここまでしておいてなんですが

明治11年5月15日の東京日日新聞の記載によると描写も鮮やかで、なにより事件から時を経ていないことから、やっぱり清水谷公園の所かなと思ったりもします。

ただあまりにも書き方が小説のようにドラマチックなんですよね。

事件翌日でそんなことわかるのかな。

当時の清水谷は北白川宮邸と華族の壬生基修邸に挟まれている場所ということなのですが、井伊家中屋敷→伏見宮邸→戦後はホテルニューオータニと思っていましたが、地図に記載されていない間に壬生邸が入っていたのでしょうか。これはこれで新しい発見です。

大久保利通暗殺について1980年代に大学生が卒業論文で研究したものが本になっているようです。


参議院宿舎前襲撃説を最後に一押し

現場とおもわしきところに神社?祠?が戦時中まで建てられているんですね。

明治末期の地図

これをおそらく亡くなった大久保を祀ったものと妄想して、今回を終えたいと思います。

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