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【新宿区】富久町の旧東京監獄跡

娘は5歳近くなって、地図巡りには付き合ってくれなくなりましたので一人で回っています。

地図をみていたら東京監獄というのが新宿にあって、今はどうなっているのかと行ってみました。場所的には新宿区富久町です。

これまで行った監獄跡は、渋谷区にあった監獄は渋谷区役所と高級高層マンション、豊島区にあった監獄はサンシャインシティ一体と、大規模に開発されています。広い用地が取れるので大きく再開発しやすいのでしょう。

富久町の監獄跡はどうでしょうか。

行ってみるとガランとした住宅街でした。

看板などをみると将来的には道路を通す計画のようです。(環状四号線計画)

Wikipediaには環状四号線計画自体は100年前の関東大震災以降からあるとの事。この地域は立ち退きが進まないと書いてありました。(立ち退きが進まないだろうと思われる理由は後述)


刑務所跡から南側を望んで。タワマン(ローレルコート新宿タワー32階建て)が夕暮れの雰囲気を演出。

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こちらから東京時層地図です。

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環状四号線はこういう感じで道路を通す計画のようです。

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この辺りの道はごちゃごちゃしていて、目的地に着くまで、右にいったり左にいったりしないといけません。

こういったわかりにくい道路というのは、江戸時代からの影響が大きいようです。

アプリ大江戸今昔巡り(1860年頃)

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一番大きいところで 駿河田中藩 本多豊前守正寛 その他、旗本与力同心。武士の居住地ですね。この時代から道路がごちゃごちゃしています。こういうところからも古くからある土地なんだということがわかりますね。

新しい土地、たとえば晴海とかは綺麗に区画が分かれてます。


明治初期 

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ちょうど郊外との境目なので見にくい地図ですが大体が畑ですね。


明治後期

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明治36年 1903年 に 東京駅南あたりにあった鍛冶橋監獄がこの場所に移転。

この時期は東京監獄と呼ばれていたようです。

ちなみに地図からはみえませんが、東側が市ヶ谷監獄で、現在は市谷台町で道路が通っています。

この地域には

伝馬町座敷牢→市ヶ谷監獄

鍛治屋橋監獄→東京監獄

と2つの監獄が隣り合っていたことになります。

そして東京監獄の形。今の東京拘置所と同じです。

この形はパノプティコンといって、有名な功利主義者「最大多数の最大幸福」のジェレミー・ベンサムが18世紀末に考えたといわれています。

時代は下って1975年に哲学者のミシェル・フーコーが著書でパノプティコンをとりあげて世界的に有名になったようです。

フーコーはパノプティコンのことを「多数に対する少数人数による監視社会を具現化した」と称しています。パノプティコンと名前のつけられたものって結構ありますね。


大正時代 関東大震災前 1920年頃

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東京刑務所と名前がかわっています。

昭和初期 昭和10年頃 1935年頃 

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1937年(昭和12年)巣鴨プリズン(現池袋サンシャインシティ)に移転となり、閉鎖

白抜きになっているので、軍事機密のある場所になっているのかもしれませんし、まだ刑務所はあるのかもしれません。

ちなみに巣鴨プリズンですが明治後期からあるので、ここが移転にあたって巣鴨プリズンが新設したというわけではないようです。


高度成長期前夜 1960年代

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戦後、監獄跡は学校をふくめて住宅地になっているようです。戦後は住宅地の確保が急務で、新宿区の戸山公園でも同様の風景が見えました。

戦後の1949年に小石川工業高校が移転、2008年閉校。


バブル期 1980年代

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細かい住宅がズラズラっとありますね。この当時の雰囲気は今もあって急に狭くなっている道路もありました。

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そして

旧東京刑務所の北の角だった場所には慰霊塔が建っています。一説には処刑場だったといわれています。この場所は児童公園になっています。

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そして公園の片隅にある

刑死者慰霊塔 夕暮れのだれもいない公園で異質な雰囲気を醸し出していました。ゾクゾクして早々に退散。

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なにも慰霊塔には詳細は書かれていませんが、ネットを色々とみてみると、

この慰霊塔は

1910年(明治43年)大逆事件で処刑された幸徳秋水らの慰霊塔で(明治天皇の暗殺をくわだてたとして、社会主義者の幸徳秋水ら12人が死刑となったもの。)

1964年(昭和39年)7月に日本弁護士連合会が建立。

日弁連のホームページには2011年に大逆事件100周年として、日弁連会長談話として会長の宇都宮健児弁護士が談話を載せていました。

引用

政府による思想・言論弾圧は、思想及び良心の自由、表現(言論)の自由を著しく侵害する行為であることはもちろん、民主主義を抹殺する行為である。しかも、裁判においては、上記のとおり、異常な審理により実質的な適正手続保障なしに、死刑判決を言い渡して死刑執行がなされたことは、司法の自殺行為にも等しい。大罪人の汚名を着せられ、冤罪により処刑されてしまった犠牲者の無念を思うと、悲しみとともに強い怒りが込み上げてくる。

毎年9月には日弁連と地元町内会で慰霊祭を行っているそうです。

なにも知らずに刑務所跡慰霊塔ということで勝手に怖がって申し訳ありません。僕なんかが昨日今日知ったことよりも相当重いものがここにあるようです。

この慰霊塔は人権団体の象徴としてここにあるのだとおもいます。

国家 VS 人権団体の構図が見えてきました。

慰霊塔は環状四号線計画にかかっています。

立ち退かせたい国とそれは許さない日弁連。

環状四号線ははたして開通するのかどうか。

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