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【世田谷区】小田急線,東北沢駅の東側

今回は小田急線の東北沢駅周辺へ。

この場所は駅名に反して丘になっています。

北沢の東にあるから東北沢という命名でしょう。

2016年に地上駅舎が完成し、とてもきれいな駅です。

案内板 1927年 昭和2年開業 かつて駅前には三田用水が流れていたようです。
駅前のロータリーもここ数年でできました。駅の利用客は少なく閑静な住宅街です。天気がよいと上原のジャーミィとドコモタワーとスカイツリーが見えます。車が並んでいるあたりが三田用水。


今回はここから東京時層地図を開いてみたいとおもいます。



現代の地図 今回行った場所の目印をつけています。

青印は東北沢の駅です。

1 北沢公園

東京電力のテニスコート跡地を利用し、昭和63年3月に開園した場所のようです。

2 ユニクロ柳井さん邸

とてつもない玄関 今太閤の名に相応しい家ともいえるでしょう。
城壁のような壁が立ちはだかっています。20mおきに防犯カメラ設置。お正月には全国のユニクロ店長の車がズラーッと並ぶようです。レンズに指紋が…
壁の後ろにさらに壁がかなり威圧感です。城壁を想起させます。

ユニクロの柳井さんは山口県宇部市出身、ユニクロ本社は山口県山口市。長州人ですね。
柳井さんの伯父さんは地域の顔役で部落解放同盟にも力を注いだ方のようです。大伯父は全国水平社の設立にも関わっていた方とか。

建設時に周辺住民の反対運動がすごかったと周辺住民の方に伺ったことがあります。
今は地域とのつながりも大切にしていらっしゃるようで、集会場には御祭りの寄付者として柳井正さんの名前もありました。


3 徳川宗家邸と徳川財団

徳川宗家の表札とは思えないほどの簡素な造り。奥にはフェンスの覆われたユニクロ豪邸が見えます。
徳川宗家のお宅。周辺のお屋敷とくらべても簡素です。
徳川記念財団 宗家は代替わりして19代目家広さんになりました。

徳川宗家のお宅がそれとは気が付かない一般住宅に見えてしまうのが意外な所でした。徳川幕府の頂点の末裔がこれでは寂しいとは思いますが、そもそも徳川財団があるだけで住んでいないのかも。
立って一畳寝て半畳、天下とっても二号半ですからね。

4 大樹荘 

運が良ければ門扉が開いていますがこの日は閉まっていました。
中の蔵もそこそこ年代物という感じです。

大樹壮は戦後、水戸徳川家13代目の屋敷だったようです。
13代目は徳川圀順(くにゆき)さん。

見つけたブログによるとJXホールディングスの持ち物と書かれていたので、もしそのままなら今はENEOSホールディングスで三菱グループに属しているようです。
うーむ ここでも三菱。

結局、明治維新で勝ったのは誰だというと、三菱なんじゃないでしょうか。人じゃなくて集合体ですけれど。

という結論をもってWikipediaをみたら

「三菱は国家なり」

と書いてありました。どうやら一般常識だったようです・・・

周知のことを新発見した気になってしまう東京時層地図あるあるです。



明治初期

畑と雑木林の間に三田用水が通っています。地図でみえるように海抜25~40mとかなりの高低差があります。
東北沢は沢じゃないんですよね。

三田用水は笹塚のほうで玉川上水と別れています。

玉川上水は甲州街道沿いにいけばいいものを笹塚から、ぐっとこちら側まで曲がってきています。

水の権利を巡って江戸時代にひと悶着あったものと推測しています。

明治後期

現柳井邸のあたりに構造物があります。

なにかの製造所のようです。

道路沿いに南下すると農科大学があり、後に帝国大学農学部、今は東京大学駒場キャンパスになります。

大正時代 関東大震災前

現柳井邸の場所は大正時代は大山園と書かれています。

「明治初期に木戸孝允が農園を開いた場所であったが、1913(大正2)年に当時の所有者、鈴木善助が遊覧施設「大山園」を開園し、一般に開放した。」

https://smtrc.jp/town-archives/city/shibuya/p04.html

土地の所有者は外交官の青木周蔵→鈴木善助と変わり、鈴木が大山園を開いたと。

大山園の場所の持ち主は

木戸孝允は維新三傑の長州藩士。
青木周蔵は長州藩出身の外交官。
鈴木善助
その後は
紀伊徳川13代目徳川頼倫だったようです。

で、今は長州出身の柳井さんか。

これは柳井さんが歴史になぞらえて意図的に買ったとしか思えない。

柳井さんほどのトップ中のトップだと歴史の事例で学んでいる事多数で、土地の経緯はご存知なのだと思います。

かつて自分の先祖をおとしめる制度を作った頂点の徳川宗家を睥睨するように巨大な住宅を建てる。

ユニクロ本社をかたくなに山口県に置いているのも長州ココにありとしらしめんがため。

幕末の権力闘争が150年経って、人を変え形を変え、いまだに続いている構図であると、おもわずブルブルっと震えが。


帝国教育会 編『学生年鑑』大正7年,富山房,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/937604 (参照 2023-10-20)

この時代の大山園は遊園地というくくりだったようです。
代々木八幡よりも大きく取り上げられています。観光名所だったのでしょう。8万坪ということから、いまでいえば清澄公園一帯くらいの大きさでしょうか。

岩崎家は清澄庭園を東京都に寄贈、都民の憩いの場としましたが、柳井家は今後あの邸宅をどうするのかということも気になります。



地形から読み取れるように、勾配が結構あります。

現在、三田用水を挟んで東側は高級住宅街。

西側は普通の住宅街となっていますが、地形からみたら適しているのは谷ではない西側なんですが、なぜ谷地が高級住宅街になっているのでしょうか。

三田用水跡 ながらく放置状態でしたが、道路が拡張されるようです。この道は山手通りと井の頭通、甲州街道の抜け道となっているので、道幅のわりには交通量が多かったのですが、これで危険性も解消となるのでしょう。

昭和初期戦前

昭和3年に小田急線東北沢駅開通。

局所的にみると谷沿いだし現在のように高級住宅街となるには疑問点のつく場所ですが・・・

1931(昭和6)年に「西武グループ」の前身である「箱根土地株式会社」が「代々木大山分譲地」として開発したことで、現在のような住宅地に変わった。

https://smtrc.jp/town-archives/city/shibuya/p04.html

堤康二郎さんが開発したということか・・・関東大震災後の焼野原に「堤康二郎の土地」と建てた杭をたてて、なにもなければ自分の土地、抗議して来たらお抱え弁護士で裁判沙汰という、かなり強引な手法で有名ですが、駅開通と同時期に周辺を買い占めるのはさすがとしか言いようがありません。

地図をみた発見としては思ったより大きなお宅は少ないです。

「お屋敷が多く、GHQが戦後接収するために空襲は免れた」

という逸話を周辺のご老人に聞いたことがあったのですが、この段階ではあまり住宅がたっているようにはみえませんでした。


戦後高度成長期前夜

戦後、被害の少なかった住居はGHQに接収されて米軍の将校宅になったということです。まだ代々木公園がワシントンハイツとなっている時代です。

大山園はコンクリート塀で囲まれています。他にもコンクリート塀でかこまれたお屋敷が多いですね。

戦後すぐに13代水戸徳川家の徳川圀順さんは住居を世田谷(現在の大樹荘)にうつしたとのことでちょうどこの時代でしょう。


バブル期

大正時代、大山園は滝があったことから、現柳井邸からは水がわいているのだと考えられます。バブル期の地図にも池があることが確認できます。

以前ブラタモリでみたのですが、松濤鍋島公園の池は渋谷台地の端にあって、そこの地層から水が湧き出していると。

柳井邸から下がる位置にあるのでそこから水が出ているのでしょう。

グーグルアースでみると丁度そこは柳井さんのゴルフコースのグリーンの部分となっていました。





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