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【世田谷区】松陰神社

以前、世田谷区役所近辺で周辺をみたところ松陰神社があることを見つけましたので行きたいなと思っていました。今回機会を得たので行ってみました。



松陰神社はその名の通り、吉田松陰を祀った神社です。

ウィキペデアでざっと略歴をみたところ

吉田松陰

1830年~1859年 長州萩城下松本村生まれ

・11歳 藩主御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
・13歳 長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。
・15歳 山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。
・27歳 叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、松下村塾を開塾する。久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などを教育。
・28歳 幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。さらに、幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけて長州藩に危険視され、野山獄に幽囚される。
・29歳 梅田雲浜が幕府に捕縛されると、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄される。松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。この結果、伝馬町牢屋敷で死刑執行。

という生涯。

享年30歳ですが、略歴みると人の2倍のスピードで生きていますね。先鋭化しすぎたとんでもない天才というイメージ。

長州藩が庇護していたのかとおもえば、逆に危険視されてとらわれたりしています。

松下村塾で学んだ面々をみると、明治政府の礎となった人々を教育しているようです。


今回はその吉田松陰さんを祀った松陰神社から東京時層地図。

西が国士館、その南が世田谷区役所、最寄りは世田谷線の松陰神社前 住宅密集地です。

明治9~19年

明治初期9~19年 

松陰神社はできていませんが墓標のような表記もあります。

文久3年、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文、等によってこの世田谷若林の地に改葬されました。神社所在地一帯は江戸時代から長州毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで大夫山と呼ばれていたそうです。
明治15年11月21日松陰先生門下の人々が相謀り、墓畔に社を築いて先生の御霊を祀り忠魂の鎮座するところとなりました。今日の社殿は昭和二年から三年にかけて造営されたものです。

松陰神社ホームページから。

この時代の毛利家の別邸というのは地図では確認できませんでした。別邸というより毛利家所有地でその良さそうなところにお墓を建てたのかなと思われます。

杉や楢の表記があるのでちょっとした雑木林だったのかなと思われます。その中にぽつんと吉田松陰のお墓を建てていたのでしょう。

明治後期

明治後期39~42年

明治15年に松陰神社創建 周辺にはなにもなく神社がある感じ。

西側の勝国寺は、戦国時代には吉良家の世田谷城の支城。周辺はけっこう起伏があります。

勝国寺入口


大正時代 桂太郎墓

大正時代 関東大震災前

桂太郎墓ができた。

評価されていた時代なのでしょう。首相在任期間歴代2位。ニコニコしながら肩をポンとたたいて頼み事をする、ニコポン宰相といわれたんだとか。

子供のころマンガ日本の歴史で育った僕には馴染み深い人物です。発見したときオオーっと声をあげてしまいました。

若い頃はかなりイケメンですよね。

桂太郎 1848 – 1913 この写真本当かな???


一方でポーツマス条約や韓国併合や大逆事件で近代日本の重大局面時の首相だったことから、これもまた意見の分かれるところなのかなと思います。

桂太郎のお墓

桂太郎の遺言によって松陰神社の近くに埋葬。桂家は毛利家の庶流だったという思いがあるのでしょう。周辺はとにかく毛利長州吉田松陰です。

昭和初期戦前

昭和初期戦前

松陰神社の現在の社殿は昭和2~3年に建てられたものということでした。

このあたり、地図で見ると世田谷の中でもけっこう山あり谷ありで交通機関もあまりないのですが、それでも関東大震災後に人口流入があったように思えます。

関東大震災前から昭和初期戦前の10年そこらで、こういった現象は東京郊外そこかしこに見受けられます。東京都の人口推移をみると大正8年あたりで300万人 昭和9年で600万人で倍になってる。

https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/hodohappyo/press/2020/06/11/documents/07.pdf

いままでは、関東大震災後に銀座浅草の人口が郊外に流れていったとおもっていましたが、外からも来ていそう。

変わったことは松陰神社の西に毛利家墓所が現れます。

現在は若林公園となっているこの場所。毛利家は奇数代、偶数代で墓所が別れていたということからそのどちらかかな。

ただ、毛利家は分家を含めて数が多い。例えば1855年頃の六本木ミッドタウンは毛利慶親、テレビ朝日は毛利元周、西新橋2丁目あたりは毛利高泰。家は違えど毛利の殿様。

そこまで追いかけられませんでした・・・

1955年 高度成長期前夜

1955年頃 高度成長期前夜

細かい住宅がたくさん。集合体恐怖症気味の私にはけっこうくる画像ではあります。

勝国寺は戦災で焼失ということからこの辺りは戦災焼失地域でもあり、また戦後の住宅事情不足の為に沢山家が建てられた場所でもあるということになるかとおもいます。

地図的にみると、松陰神社前駅から神社までの参道がにぎわい始めたのが戦後のように思えます。

松陰神社縁日が今年で39回、幕末維新祭りが19回ということを考えると定着したのは戦後、周辺地域に溶け込むには時間がかかったのかもしれません。

この神社の起こりからして

明治15年創建 1882年

そのころの周辺住民は長州関係者でなければ、あまり興味もなさそうな場所ですから、産まれた時から周辺にあって先入観を持ちにくい世代は1885年くらいの生まれだとして、両親から「あの神社は最近できた」なんてことを言われたりして、さらに一世代30年、1915年大正生まれあたりの人達が地域で力を持っているのが高度成長期前夜の1955年頃。

ここにきて縁ある吉田松陰先生の松陰神社を盛り立てようということで、力を入れた・・・と蛇足妄想。

バブル期1990年頃

世田谷区が昭和35年 1960年に毛利家墓所を買収し、若林公園を開設。周辺は住宅密集地となりました。

写真でちょっとみる松陰神社

それでは写真で松陰神社をちょっとみてみたいとおもいます。

奥が社殿で社殿前には風鈴が飾られていました。奉納の風鈴ですが持ち帰ることもできます。私も一つ買わせていただき、自宅に持ち帰りました。ガラス製の風鈴で風が吹くとちりんと優しい音がします。
風鈴を奉納するというスタイル。
社殿に向かって左手に鳥居があります。奥に進むと墓所があります。鳥居をくぐってお墓というのは大久保利通墓以来です。すこし疑問があるのが、神道式のお墓詣りは柏手を打つらしいのですが、こういった鳥居があるお墓はどうなのでしょうか。社務所の方に聞けば良かったです。
わかりにくいですが、真ん中が吉田松陰先生墓です。質素はお墓でした。


吉田松陰を含め安政の大獄連座で処刑された方3人、討幕関係で命を落とした方が3人、吉田松陰に心酔していた野村大臣夫妻のお墓
明治37年 桂太郎によって建立された長州藩第四大隊戦死者招魂碑 桂太郎は戊辰戦争で第四大隊を率いて200名の部下が死傷者94名 ウィキペデアによると桂はかすり傷ひとつ負わなかったそうなので、そういった負い目もあるのかなと感じました。



帰り道に西側をみたとき、巨大な石碑があるのが見えました。
大久保利通墓にもみられたような長方形の碑。
鳥居もありました。
寄ってみたいなと周辺をみたところ、どこにも入口がない。
なぜなんだ。

社務所に戻り、お尋ねしたところ、広沢真臣さんの墓所とのことで敷地は神社にあるが立ち入りは禁止とのこと。

広沢 真臣(ひろさわ さねおみ)1834~1871年 長州藩士


広沢 真臣(ひろさわ さねおみ)1834~1871年

維新10傑の一人。

明治4年に麹町富士見町の私邸で深夜になにものかに暗殺される。犯人はわからずじまい。

維新10傑で明治10年越えても生きた人は岩倉具視しかいないし、岩倉も喰違見附の変で暗殺未遂でお堀に転げ落ちて偶然助かっただけだから、実質全員死亡。怖い時代だなぁ。

松陰神社には案内地図がありますが、この地図の範囲が広大で驚きました。北は永福町、南は等々力。そして書き込まれているのは協賛企業と小中学校という・・・おそらく協賛企業の範囲で広げたら大きくなったのかと。

松陰神社は世田谷に突如現れた長州山口。そんなイメージを持ちました

吉田松陰は安政の大獄連座で亡くなりました。
その安政の大獄を実行した幕府の大老、井伊直弼のお墓は目と鼻の先の豪徳寺にあります。
当然のように、地図に豪徳寺の案内はありません。バチバチの関係は今も続いているんじゃないでしょうか。

しかし当事者はバチバチであっても、檀家でも氏子でもない私は、両方をお参りに行かざるをえません。近いですしおそらく同時にお参りされている方がほとんどだとおもいます。

いちおう気を使って、御朱印は向かい合わせにならないようにしておこうかな。

次回はその豪徳寺へ・・・・

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