見出し画像

【港区】虎ノ門近辺

今回は江戸三十六見附の一つ、虎ノ門に行ってきました。

在りし日の虎ノ門。本当にかっこいいですね。

画像1

有事の際には橋を落としてしまえば、ここからの侵入は難しい。赤坂見附では難工事でなしえなかった城門の理想的構図です。

写真の奥側がすこし高くなっている様子で大名屋敷がみえます。

幕末1860年頃の地図(大江戸今昔巡り)

画像2

赤坂見附の場合は外堀の内側が徳川一門で守られていましたが、こちらはどうでしょう

日向延岡藩 内藤能登守政義 7万石 譜代大名 当時の大老 井伊直弼の異母弟

御小姓組 村瀬平四郎 2500石

御奏者番 丹後宮津藩 松平伯耆守宗秀 7万石 譜代大名 老中

御奏者番 美作勝山藩 三浦志摩守朗次 2万3000石 願い譜代大名

信濃松代藩 真田信濃守幸教 10万石 男系は断絶し、婿養子になった8代藩主幸貫は徳川吉宗の曾孫 老中

ということでやはり外堀の内側は譜代大名で固めている様子が見てとれます。

逆に外堀の外側に屋敷がある大名は

讃岐丸亀藩 京極佐渡守朗徹 5万502石 外様大名

豊後日出藩 木下飛騨守俊程 2万5000石 外様大名

肥後人吉藩 相楽越前守為知(相良 頼基か) 2万2100石 外様大名

なので、外堀の内側に譜代大名や一族を置いたという説はある程度妥当性があるとおもいます。

現代の地図 

画像18

財務省、経済産業省、会計検査院、文部科学省、文化庁、日本郵政本社ビル

官庁街ですね。

青い丸が現在地。国道1号線沿いです。

東京時層地図明治9年頃の地図をみると・・・(もうすこし引きでスクリーンショットするべきでした)

画像6

虎ノ門が現れました。外堀の外側に今いるという感じです。

現在の霞が関3丁目の信号あたりです。北側は魯国大使館。(ロシア)

東京景色写真版 明治26年 魯国大使館

画像23

地図でいうと門のあたりで奥が建物ですね。

明治26年は1893年でロシアはこの年にチャイコフスキーが亡くなった年です。

1891年に滋賀県でロシアのニコライ皇太子が襲撃される大津事件が起こります。1894年にニコライ二世が皇帝に即位し、10年後の1904年に日露戦争勃発。ピリピリしている時代ですね。今もめちゃくちゃピリピリしています。

虎の門があった場所へむけて写真をとってみました。

画像4

道路の真ん中あたりが虎ノ門があった場所。向かいの建て物が文化庁です。

画像1

明治初期の虎ノ門取り壊し前の写真。一番奥の石垣は文化庁の中庭にあたり発掘保存されています。

現在の文化庁の建物については、旧文部省庁舎 昭和7年建築の関東大震災復興庁舎で文化財。

画像12

文化庁の中庭には石垣が残されています。この石垣が虎ノ門写真の奥に写っている石垣。たしかにそれっぽい。非常にいいですね。

画像13

画像15

この石垣は寛永13年 (1636年)大名の池田光政、九鬼久隆、石道惣築(全員で築く)、戸川正安、毛利高直、池田長常が担当。

画像14

ここは平成16年に実施した遺跡発掘調査によって発見されたそうです。さすが文化庁、文化財の建物と中庭には遺跡。

明治13年 虎の門の夕景 小林清親 画

画像21

虎ノ門関連の浮世絵もそうですが、虎ノ門の南西側にあったとされる葵坂から描かれたものが多いんですよね。この絵もその類だと思います。

夕景とありますが夕方に太陽を背にして、建物を眺めた絵でしょう。

地図をみると建物は内藤能登守の屋敷から工部大学校となっています。

Wikipediaより 工学寮工学校校舎

画像22

日本初の工業教育機関で東大工学部の前身。

この写真の右裏に虎ノ門があった位置関係になります。

明治後期

画像5

虎ノ門は明治6年(1874年)に撤去され、外堀も埋め立てられ、都電が走っています。工部大学校も移転。

拡大しすぎてみえなくなってしまいましたが、虎ノ門の北東は貴族院と衆議院があります。

貴族院

画像23



大正期 関東大震災前

画像7

工部大学校跡は維新史資料編纂局となっています。

維新史料編纂会
いしんしりょうへんさんかい
1911年(明治44)5月、文部省維新史料編纂会として発足し、『大日本維新史料』の編纂を行った会。同会は、前年の井上馨(かおる)の発起による彰明(しょうめい)会を官制化したものである。編纂は、孝明(こうめい)天皇の践祚(せんそ)(1846)から廃藩置県(1871)までをその対象とし、1931年(昭和6)7月に基礎稿本4180冊を完成した。その後体制を縮小し増補修正にあたり、1858年(安政5)5月までの一部、3編19冊が刊行された。また、その編纂過程で『維新史』という概説書も著した。第二次世界大戦後、稿本は東京大学史料編纂所に引き継がれたが、現在でも利用しうる明治維新史関係のもっとも詳細な史料集といえよう。[横山伊徳]出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

なるほど。

そして地図からは少し西にいった場所で関東大震災後の大正12年 1923年 のちの昭和天皇が散弾銃で襲撃をうけた虎の門事件が起こります。現在の虎ノ門ダイビルのあたり。

これによって当時の山本内閣は総辞職、警視総監と警務部長の正力松太郎(のちの読売新聞社主)は懲戒免官 

犯人の難波大助は名家の出身で上京し四谷近辺にすみ、若葉町、鮫が橋の貧民窟をみて社会問題に対して憤りをおぼえていったとあります。

難波大助の父は衆議院議員でしたが、事件後蟄居し半年後に餓死。山口県2区の地盤は松岡洋右に引き継がれ、のちに岸信介、佐藤栄作に引き継がれる。

うーん、テロを起こす側も昔からそれなりの人物なんですね。考えてみれば同じレベルだからこそ許せないという気持ちになるのであって、全く違えば疑問にさえ思わないですもんね。


昭和10年頃

画像8

文部省が出来ました。旧文部省庁舎 昭和7年建築の関東大震災復興庁舎で文化財。

この当時の地図は白抜き改描が多数あるのですが、文科省はそういったことがないようです。北の外務省は隠されています。


高度成長前夜1960年頃

画像9

バブル期

画像10


虎ノ門跡を南側に向かって撮影 国道1号線です。

画像11

虎ノ門の南側には金比羅神社があります。高度成長期あたりまでこのあたりは琴平町とよばれていました。

金刀比羅宮

画像16

画像18

御朱印いただきましたが、こちらの御朱印代は「おきもち次第」

5000円札しかもっていなかった私はたいていの相場の500円、または300円。ひよって1000円と言ってしまいました。

もうこの際ですから5000円いっておくべきだったと思います。いや5000円払うならお祓いしてもらったほうが良いですね。


創始
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。
ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。

なるほど、たしかに1860年頃の地図には京極家は虎ノ門の外側にありました。讃岐国丸亀は香川県。

香川県の金比羅さんのホームページはこちら

おお、なんと住所が香川県琴平町

虎ノ門近辺の住所も高度成長期あたりまでは琴平町といっていたので、土地に根付いている宗教といえるのではないでしょうか。金比羅神社は2020年に神社庁を離脱しましたが、単独でやっていけるくらいの大神社であるということもできます。


金比羅神社のちかくには外堀通りに面していわくありげな石碑が建っています。

画像17

江藤新平君遭難遺址碑

江藤新平というと西郷隆盛とともに1873年(明治6年)明治六年の政変で下野し、佐賀の乱のリーダーとなって斬首となった政府の高官ですが、この碑とどういった関係があるのか。

碑をたてたのは1916(大正5)年で40年近くたってからのこと。

書かれている内容をざっくりとまとめると

江藤新平は明治2年に赤坂葵町の佐賀藩(鍋島邸)に訪問し、阪部、西岡、荒木氏と楽しく話をし、夜になって帰るところで暴漢に襲われて、濠の中に逃げ、その後駆けつけた3人に助けられた。江藤は佐賀藩で制度改革をして恨まれていた。江藤は征韓論で惜しくも亡くなってしまった。

江藤、阪部、西岡、荒木は私(土方久元)の古い知り合いであり、最近、荒木の息子である三雄がやってきて

「父は江藤のおかげで出世し、そのおかげで暮らしていけている。父は江藤が襲われた場所に碑を建てたいとおもっていたのだけれど果たさないまま亡くなったので碑文を書いてください」

と言われ私はそのようにした。土方久元 股野琢

ということ。

荒木博臣はこの辺りの地主となっており、昔を振り返って江藤新平にお世話になったから江藤新平の碑を建てようという、いわゆる個人的な碑ですよね。

この碑の人物は鍋島藩の4人と土佐藩の土方久元。大正のおわりくらいまでは明治維新の薩長土肥の権力が残っていたのだと思います。

さらに調べてびっくりしたのが荒木博臣には三雄の他に長女がいて、それは森鴎外の二番目の妻だった「森志げ」森鴎外の子供たちはマリ、アンヌ、ルイと個性的な名前で有名です。

アンヌさんの息子さんは小堀鷗一郎さんで訪問診療と看取りについての本を出版されています。

今回は狭い範囲でしたが、さすがは裏霞が関といわれる虎ノ門。けっこう広がりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?