見出し画像

4,【千代田区】大久保、西郷邸を国会議事堂で発見

東京時層地図・国会議事堂編


・今の国会議事堂

現在の国会議事堂は広大な敷地と重厚な建物と、外界を拒絶する高い鉄柵と高圧電流さくで威圧感がある。警備も厳しく路駐も許さない鉄壁ガードだ。

ちなみに国会関連施設内の自販機は市販価格より全て50円引きの設定になっている。実は国会で働いている職員の方の給料天引きの福利厚生との事。

現在の国会議事堂は昭和11年(1936年)に建てられた。
青い丸が私のいる所。
議事堂に向かって左が衆議院で右が参議院。
警察官の数のほうが通行人より多い。自分の年齢より警察官のほうがかなり若くなっていることに時の流れを感じる。

画像1

一気に140年前にタイムスリップしていこう。

・明治初期の国会議事堂近辺は西郷邸があった?


文明開化時 1876-84(明治9~17年)

画像2

三条実美の邸宅がある。三条実美は元公家で元勲、明治維新とその後に深く関わった人物。
南には皇族の有栖川邸、ここは元々は副島種臣の邸宅だったようだ。

北には陸軍省、参謀本部と、現在の国会図書館の位置にドイツ公使館がある。
東には教導国工兵営?聞きなれない単語だ。

西には元安芸藩の浅野邸、西郷邸は薩摩藩の西郷隆盛の邸だろうか。
西南戦争は1877年(明治10年)にあるのだが家はそのままか、それとも弟が持っていたのか。
弟の西郷従道邸は代官山の西郷山公園が住居跡だ。

西郷邸の南側には大久保利通、肥前佐賀藩の大木喬任、佐野常民といった藩閥の有力者が住居を構えている。
屋敷には必ずといっていいほど池があり、地図からは優雅な暮らしが伺える。

・明治維新陰謀説?

明治維新は色々な説がある。

例えば明治維新で裏で糸を引いていたのは当時ヨーロッパを思うがままに操っていたロスチャイルド家であるという話。

副島隆彦という人の本によるとロスチャイルド創業のマイヤー・アムシェルはドイツのフランクフルトの金貸しで身を立て、その後はフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリと5家に分かれ、莫大な資金で国のスポンサーとなり政治を動かしていて、遠く離れた異国の明治維新にも多く影響を及ぼしたとある。

ロンドン家は官軍を支援し、パリ家は幕府軍を支援。

結果的には官軍が勝つことになるが、負けた幕府側の実質的な総大将の榎本武揚は生き延びたばかりではなく、その後明治政府の要職についている。

これはロスチャイルド・パリ家の圧力だというのだ。

たしかにいくら人財不足に陥っていたとはいえ、昨日の敵大将が今日の味方の大臣というのはちょっと妙な話だ。

大体の場合において内戦は何らかの後ろ盾が付いているので、その後ろ盾自体が同じ組織であればどっちが勝ってもそういった圧力は可能かもしれない。

サピエンス全史でベストセラー作家になったユヴァル・ノア・ハラリは著作のホモ・デウスの中で、ある特定の組織が意図的に100億ドル儲けることは可能だが、世界を動かすようなことは物事が複雑すぎて不可能だと述べている。

欧州勢にとって明治維新が100億ドル儲けることか世界を動かすことかといえば前者に当たるのだろう。

その隆盛を誇ったロスチャイルド家も1900年代初頭には力を失っているが、今もヨーロッパの上流階級としては健在だ。

・明治末期にガラリと変わった国会議事堂近辺


上の写真から30年経過した明治末期の地図がこちら。
明治末期 1906-09(明治39~42年)

画像3

30年あまりの時間の経過で周辺は大きくかわる。

三条邸跡地は枢密院事務所となり、広大な有栖川邸は霞ヶ関離宮となり、大久保邸跡はベルギー公使館となっている。
藩閥の邸宅も島津邸を残すのみとなった。

おそらくは島津家は跡取りがいるから存続できたが
跡取りのいない明治初期の有力者は世代交代し、この地には残らなかった。
あれだけあったお庭の池もほとんどなくなった。

参謀本部の陸地測量部に23.13と書かれた水準標がある。

画像5

ここには今も日本水準原点標庫がある。明治24年に作られた。
建物に篆文で水準原点と書かれているのがアツい。
大日本帝国と彫られている公的な建物は今では少ないそうだ。

・大正時代は今の国会議事堂はできていませんでした。

関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)

ちなみに関東大震災は1923年(大正12年)にあるのでこの地図は震災前だとすると大正時代と推測される。

画像5


議事堂は大正9年に着工されたとのことなので、現在建築中またはこれから作るといったところの地図なのかもしれない。

・1936年帝国議事堂完成


昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)

この時代、地図自体の精度が怪しくなる。白ヌキ改描はこの時代のおなじみ、重要施設を隠すためにある。陸軍省が隠されていないのは意外な所。

画像6

帝国議事堂の完成は火事がおこって焼けたりして長引き、着工から17年かかってできたようだ。1936年(昭和11年)

戦時中は国会議事堂の庭も畑にしていたようである。

・区画整理前の国会議事堂

高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)

画像7


戦後10年以上がたち、高度成長期となった。陸軍がなくなりドイツ公使館も移転、省庁も移転。
社会党本部、参院議員会館、恩給局は現在は存在しない。道路も高度成長期を境に大幅な区画整理をする。

バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)
現在と大きな区画の違いはないだろう。社会文化会館が国会図書館新館となり、総理府が内閣府になったという変化はある。

画像8

首相官邸と近いこともあって、国会議事堂裏の警備は厳しく、携帯で地図確認して道を行ったり来たりしただけで、警察官が何気なく寄って来るなどマークされてしまう。

画像11

国会で働いている職員さんに聞いたことがあるのだが、国会議事堂と近辺の主要な施設は地下道で全て繋がっていて、地下道には30m置きに警察官が立っている。

通行をするにはネームプレートは必須でそれが裏返っているとすぐに注意される。一度、他人のネームプレートをつけていたら、すぐにバレてめちゃめちゃ怒られた人がいたのだとか。

警察官も自分の担当のところをスルーしてしまうと、あとで怒られるので本気でチェックしているのだそうだ。

・大久保邸はバッチリわかるけど西郷邸は見間違いかな?

国会議事堂裏から140年前をのぞいてみる。

画像12

文明開化時 1876-84(明治9~17年)

画像9


今の衆議院第一議員会館は140年前の清国公使館にあたり、今の首相官邸は鍋島邸にあたる。大久保、大木、西郷といった明治維新で活躍した人物の邸宅もある。山口邸っていうのはどなたでしょうか?

国会議事堂をぐるりと一回りし、最後は憲政記念館の庭でランチ。

画像10


憲政記念館は人がいない穴場スポットなので、大いに満喫。
非常におすすめ。憲政記念館の石碑に掘られている尾崎行雄さんの言葉

「人生の本舞台は常に将来にあり」

東京時層地図で過去を探ろうとしている私にとってハッとする言葉だった。

※2019年3月30日来訪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?