活字の林をさまよい、思考の泉のほとりにたたずんだ半年~noteがつないだ記者生命
新聞社を退社して半年余。表題の言葉は、信州などの動物を描いた児童文学作家の椋鳩十先生の一文です。退社を一年半後に控えた2019年3月、長野県喬木村の椋鳩十記念館で出会った碑文です。
「活字の林をさまよい 思考の泉のほとりにたたずむ」
いい言葉だなあ、と思いました。65歳は人生の「黄金の10年」のスタートだと心に決めていたので、少しずつ準備を始めていたときです。新聞記者の歩みと、新しい記者人生を前に、励ましの言葉のように感じられました。
さて、2020年秋です。42年間の新聞記者生活で得た多くの友人に支えられ、まだ書くことが山ほどあるとの思いから一歩を踏み出しました。
ところが、いきなり困りました。名刺がないのです。退社翌々日から愛知県産のブランド米の取材を入れていたので、大急ぎで市販のマルチカードを買ってきて、パソコンで作りました。なんとか印刷して10枚だけ間に合わせました。
肩書きは「農政ジャーナリスト」。この日が来ることを予想して、農政ジャーナリストの会(東京)に所属してきたことが幸いしました。相撲界でいう「三年先の稽古」が、実ったというわけです。
しかし、取材テーマは農政ばかりではありません。アートやスタートアップ、情報通信、製造業、サービス業などの取材予定が次々と手帳を埋めていきます。名刺印刷の店に駆け込んで、今度は「ジャーナリスト」の名刺を発注しました。
次は発表の媒体です。退社前から、新聞の縦書き、1段12文字で見出しと写真をレイアウトする段組編集にこだわっていました。A4サイズの企画記事にして、知り合いにファクスかメールに添付しようと考えていました。
紙面レイアウトに携わっていた同僚記者からもアバイスを受けました。Wordのソフトだけではなく、Mac用のイラストレーターというソフトが使いやすいと聞き、早速、試行錯誤しましたが、素人が作った冴えない紙面にしかなりません。オールドメディアそのものの思考でした。
そうこうするうちに、2020年7月、地元紙に載った「デジタルメディアの現在地」と題する連載を見つけました。この第4回目に「急成長する『note』~書き手の支援をビジネスに」という記事と出会いました。2014年にサービスを始め、6年余で会員数260万人という規模に驚きました。クリエイター自身が文章などを無料で読んでもらったり、自分で作品の値段を決めたりできるということが、背中を押してくれました。
2020年10月15日にnoteに初めてのコラム記事を投稿しました。愛知県日進市の保健師母娘が作詞した手洗いの歌のコラムです。新たな記者生活のはなむけとして、退社翌日に買った文章入力専門の「pomera(ポメラ)DM200」で軽快に打つことができました。
これ以降、取材先で掲載する媒体を聞かれても、noteと答えることができるようになったのです。
三年先の稽古で思い出しますが、名古屋市熱田区の法持寺の境内に第55代横綱北の湖の言葉が碑に刻まれています。
「うん ほんまに横綱になったんや 母ちゃん」
1974年に横綱昇進を告げる使者を迎え、口上を述べた後、すぐ故郷の北海道の母親に電話をかけたときの言葉です。元NHKアナウンサーの杉山邦博さんの著書「土俵一途に」(中日新聞社)に載っている逸話です。
先日、久々に参拝したところ、隣の石碑に目が行きました。こちらは引退後です。
横綱になったときは
土俵のことだけを
考えていればよかった
これからは
相撲界のために
努力しなければならない
すべてが現役のときとは
ちがう
「石」つながりで、もうひとつ。
戦前の信濃毎日新聞主筆、桐生悠々は、軍部に批判的な社説を書いたとして退社を強いられました。晩年、愛知県守山町(現名古屋市守山区)に移り、「他山の石」という会員制の個人雑誌を8年にわたり出し続けます。詳しくは、井出孫六著「抵抗の新聞人 桐生悠々」(1980年、岩波新書)に譲りますが、ここでも官憲の弾圧下でペンの自由は思うに任せず、1941年夏に廃刊となりました。
ただ、井出は著書で「桐生悠々六十八年の生涯において、その光芒がいや増すのは、信毎を退いたあとの、晩年八年にあるといってよい」と書いています。
椋鳩十、北の湖、桐生悠々。こうした先達の言葉をかみしめながら、ペンが生きる社会のために、「石の上にも三年」の決意です。
(2021年4月15日)
【桐生悠々の社説】1933年(昭和8年)に書いた「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」。敵機の空襲が帝都にあったなら、木造家屋が多い東京市(当時)は、一挙に焦土となるとして、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に、迎え撃つということは、我軍の敗北そのものである」と指摘した。
【石の上にも三年】冷たい石の上でも三年も座りつづけていれば暖まってくる。がまん強く辛抱すれば、必ず成功することのたとえ。(大辞泉より)