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第1章 「信濃の国」の文化と経済♪県歌誕生秘話(note1)

 このリポートは、長野県の文化や経済について人からたずねられたときに、関心を持ってもらえるようにと、個人的にまとめたものです。タイトルにある「信濃の国」は、1900年に発表された県民の唱歌で、のちに県歌に制定されました。多くの長野県民によって今も歌い継がれています。この歌詞を話の軸にして、信州の文化と経済を考えてみようと思います。少しでもご参考になれば幸いです。
~目次~
第1章 県歌「信濃の国」秘話★
第2章 文化圏と美術館
第3章 2022年の大遭遇~伝統の祭り
第4章 個性的な企業群
第5章 地場産業
第6章 食と農
第7章 人国記~「信濃の国」では
第8章 教育県とは
第9章 長野県人会の活動
最終章 あとがきにかえて~名古屋と長野県との一体感

第1章 県歌「信濃の国」秘話
 ■心通じ合う歌
 長野県には郷土の風土や歴史を歌いこんだ県歌「信濃の国」があります。1899年(明治32年)に長野県師範学校教諭の浅井洌(きよし)が作詞、翌1900年(明治33年)に同校教諭の北村季晴(すえはる)が作曲し、以来歌い継がれています。
 信濃の国は、1968年5月20日に県歌に制定されました。制定に尽力した県総務部広報県民室の初代室長、太田今朝秋さんの文書『県歌「信濃の国」の誕生』(2010年)が県のホームページに紹介されています。ポイントは「信濃の国」が、長野県民の絆を深めたということです。
 1871年(明治4年)の廃藩置県で北部(北信)の長野県(県庁は長野市)と、松本以南(南信)の筑摩県(県庁は松本市)に別れていました。1876年(明治9年)に筑摩県庁が火災で焼失したため、「時の政府は同年8月独自の判断で長野県(北信)に併合させてしまった」と書かれています。南信の住民は県庁の所在地が遠くなって不便ということで、たびたび県庁の移動や分県を提起する運動を続けてきました。
 戦後の1948年3月の県議会は分県案でもめました。長野県の「議会の沿革」によると「分県調査委員会で分権案が可決されたことから3月19日の本会議採決では反対派議員の牛歩戦術により議事の引き延ばしを図り議場は大混乱」とあります。本会議場では分県賛成が30人、反対が29人、欠員1人の状況。まさに長野県が割れる寸前、傍聴席から期せずして「信濃の国」の大合唱が起こり、それが機縁となって県議会は流会したと伝えられています。
 「信濃の国」には、もう一つのエピソードがありました。太田さんによると、日清戦争の後、戦勝気分が続き、学校でも軍歌を歌わせていたことを信濃教育会の会長だった正木直太郎・長野師範校長が心配していました。正木は新たに地理や歴史を取り入れた唱歌を作るように師範学校の浅井教諭らに依頼してできた歌だと知りました。
■四つの平
 信州は主に四つのエリアに総称されます。長野市を中心とした「北信」。上田市や佐久市を中心とした「東信」。松本市から木曽谷にかけての「中信」。諏訪市から飯田市など長野県南部の「南信」です。
 この「信濃の国」の1番の歌詞に「松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地」と歌いこまれている場所です。それぞれの風土、歴史を築いています。それぞれの地域の山河や景勝地、郷土の偉人たちをバランスよく読み込んでいます。太田さんは「自然に信州を一巡した気分になり、うたう人の心が一つになるような配慮がなされているように思うのである」と書いています。
 6番まである「信濃の国」には、「長野」という字句が見当たりません。配慮があったとみると、ますます県民の一体感醸成に果たした歌の力、言葉の力を感じるのです。
(2021年7月10日)

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