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新婚旅行に行ってきた


初日朝の羽田空港第2ターミナル

はじめに

昨晩まで6泊7日の新婚旅行へ行ってきた。人生で最も浮かれた類の旅行となったので、興奮冷めやらぬうちにここに記しておく。SNSで散々浮かれ散らした様を見た人も多くいると思うけど、浮かれながらもこうした文章にまとめたら面白いだろうとはずっと考えていたのだ。夫婦で撮った写真の量は約1200枚となり、キャッキャウフフしていたのがその量からも窺い知れる。

妻とは去年2021年10月初旬から一緒に暮らしており、結婚したのが今年2022年3月1日で、10月2日に結婚式を挙げた。そもそも高校の頃からの友人だったりもするので、お互い勝手知ったる仲だ。ただし旅行となると話は別である。これまで何度か妻とは旅行していた。高校の頃は一緒に川村記念美術館へ行った。学生の頃は草津やいわきへ行ったし、この前も四国へ行ってきた。そういえばプロポーズは冬の鬼怒川温泉だったっけ。その度に我々の間には少しずつ旅行に対する意識の差が現れていた。荷物量の差や、それに伴うファッションへの気遣い、宿泊施設へのこだわり、そして経験の差だ。
妻はヨーロッパ各国や台湾、ベトナムなど海外旅行を豊富に経験し、一緒に暮らしてからも、僕が仕事で忙しい隙に突然日帰りで秩父に行ったりしている。僕はと言えば、実はあまり旅行の経験がなく、レジデンスや取材旅行の方が圧倒的に多い。この場合当然「観光」が目的でもないためムスッとした旅行になったり、制作漬けになるので良い思い出じゃないこともある。宿泊も公園や神社で野宿だったり、友人の家に転がり込むことが常なので事前に宿を予約することがあまりないのだ。カプセルやスーパー銭湯にお世話になりっぱなしで、服装は最低限にしてコインランドリーを利用した。あの「待つしかない強制的な時間」が好きなのだ。
まとめると、最低限ちゃんと支度する妻と、なんとかなってきた夫、という対比構造のある二人の旅行だった。ただ僕は「なんとかする」ためには時間を使ったり身体を酷使したり、金銭面以外の代償が高くつくことをよく知っていた。だから今回は、僕なりに一ヶ月以上前から準備したうえでの旅行となった。こうした準備をしっかりできて本当によかった。

野宿していた頃 映っているのは公園の水道で顔を洗ったあとの荒木さん

今回は飛行機もホテルも全て事前に予約した上での旅行である。行き先は九州の北半分。夫婦それぞれ行きたい場所を出し合って決めた。僕は両親が北国出身で、散々行ったので信州・東北はNG。四国は二人で行ったことがあるし、関西も妻は結構行っている。そこでお互いほとんど経験のない九州ということになった。
僕は過去、北九州空港そばの東横INNに一泊、博多の友人宅に一泊したことがあり、4分だけ別府温泉に滞在したことがある。が、北九州空港そばの東横INNは夜中着いて寝ただけだし、博多では友人達と再会してお茶したり焼肉行った印象しかない。それにせっかくなら行きたい場所がそれぞれ九州に集中していたので、行き先は九州北半分となった。

【1日目 ・10月16日(日) ・羽田〜博多〜佐賀〜長崎】


ということで、初日は羽田空港からANAで福岡空港に向かった。

2人分の往復チケット 28日前予約でLCCと大差ない値段で購入することができた。

朝早く羽田空港に着いて、最新のチェックイン方式に感動しつつ、妻がEPOSカード会員であったため安く空港の有料ラウンジに潜入することができた。ドリンクバーと眺めのよろしい座席が並んでおり、そこでまったりした。

羽田の有料ラウンジにて 妻が買ったお菓子とアイスコーヒー

まったりしすぎて残り1分のところで慌てて搭乗し、あっという間に博多に着いた。10年以上ぶりに乗ったANAの内部は想像以上に快適で、自分は座席についてる画面からRCサクセションを流して聞きながら、持っていた大竹伸朗著『既にそこにあるもの』を読んで優雅に過ごした。空港には無事に着いて、その後あらかじめ予約していたレンタカーに乗り込み、ついに出発。免責こみで32,530円。

まず向かったのが久留米「丸星中華そばセンター」だ。そふつお兄さんのオススメで、バラックと言っても差し支えのない建物でラーメンを啜る。店内には著名人のサイン色紙が所狭しとかざられ、僕の頭上には重たそうなテレビが取り付けてあった。もともとドライブインだったのだろう。妻の頭上には「宿泊無料」と書かれた昔の写真が飾られていた。本場のとんこつラーメンをちゃんと食べたぞ、と感慨に浸りつつやっぱり替え玉を注文したり、かしわ飯も食べたりしてお昼を済ませた。
ただ正直、今住んでるとこの近所にある博多ラーメン屋のレベルが高かったことが証明されてしまったというか、九州旅行を経て3度ラーメンを食べたが「うちの近所だってなかなかやるじゃん」とか考えてしまった。こっそり連絡くれたらそのお店お教えします。

丸星中華そばセンター 外観
通常のラーメンを注文した僕
かしわ飯と追加チャーシュー

そのまま西へ進んで佐賀県神埼市に向かう。福岡と佐賀の県境近くに位置する、エッフェル塔に上りに行くのだ。聞けば板金屋の主人が自分の工場の敷地内にエッフェル塔を建てたという。さらに登れるらしい。そりゃ当然登りたい。田圃沿いの道を進んでいくと突然エッフェル塔が現れ、爆笑しながら向かう。事前に調べた限りでは勝手に見て登って良さそうだったので、敷地内に車を停めさせていただき、一応ご挨拶をしていざエッフェル塔へ。運動経験のないまま30歳にまでいたり、95キロの体重の自分には半分まで登るので精一杯だった。はしごは途中で休めないのが辛い。上から遠くの妻へ声をかけ、写真を撮ってもらう。実家が郊外のマンションの高層階のくせに高いところが怖い僕はかなり冷や汗をかいていたのだが、降りて妻に「楽しかったね〜すごいね〜」とあやされてしまった。高いところに登ってアタフタしながら降りて来てあやされる感じ、我々夫婦の関係性が如実に表れていてとても恥ずかしい。

田園風景に鎮座するエッフェル塔
中間地点まで登った僕。ここからさらに上に登るには軍手と筋肉のついた脚と痛くない腰が必要…

そして15時を回ったタイミングでハウステンボスに到着。「よくわかんないけどせっかくだからハウステンボスには入っておこうよ」というヌルい気持ちでパスを買って入場。雰囲気を楽しみながら目的なく散策し、途中で「まだ半分にも満たないなんて?」と驚く。それもそのはず、ハウステンボスはとにかく広い。もうええっちゅくらい広い。伝わるかわからないが、立川の昭和記念公園とほとんど同じ広さである。ハウステンボスが1.52 km²で、昭和記念公園が1.653 km²。ちなみにディズニーシーの面積が0.49 km²である。
以前妻と昭和記念公園に紅葉を見に行き、なんか途中でよくわからなくなってしまい、途方もない気分になって命からがら帰ってきたことがある。そこのところハウステンボスはバスが多く運行しているため非常に助かる。

ハロウィン仕様ベアーズに紛れる妻 かわいいね

ハウステンボスと昭和記念公園の共通点は他にもある。
隣に米軍関連施設があり、3本煙突(鉄塔)も建っているのだ。

 昭和記念公園の隣にかつて存在した立川米軍基地キャンプ・フィンカムの3本煙突(現在撤去済)    皆に見せたくて購入しました setecastronomy / PIXTA(ピクスタ)


ハウステンボスから見える米軍住宅と、そのさらに奥に針尾送信所(3本の鉄塔)

とまあ、ハウステンボスそのものよりも、近隣施設に興奮していたらすっかり日も暮れてきて、途中スコーコーヒーパーク(ちゃんと明るいうちに観光した方が良かったかも)でトルコライスを食してホテルにチェックインした。宿泊したビジネスホテルはバストイレ別で、非常に快適なホテルだった。大浴場もあるそうだけど、残念ながらこの日は閉まっていて、部屋についたお風呂の湯船を誤って溢れさせるなどして過ごした。
早朝から活動し、地味にたくさん歩いてクッタクタの状態で就寝した。地味にビールやおつまみを買いに行ったりもしたけれど。

【2日目 ・10月17日(月) ・長崎】


夜にホテルに着いたため、窓からの景色がよくわからなかったが、翌朝窓を開けてみると変な島が見えた。写真を撮ってツイートした直後、九州を代表する現代美術家・名もなき実昌からLINEが届く。泊まっているホテルを特定されてしまったのだ。島が見えてくら寿司が手前にあるので特定は容易だったのだろう。だからなんだという冗談なのだが、妻が案外怯えてしまい「ほらYouTuberだって泊まったホテルの紹介するじゃん」などと適当に慰めた。僕や実昌はインターネットと自意識がある程度同期されている身として「な〜んちゃって」という態度で変なことをするのは常のことなのだが、SNSでの交流など普段滅多にない妻からするとナード達のじゃれあいは、正直引いちゃう対象なのだろう。

左に見える島は臼島と言う


余談だけど、我が家に友人が遊びに来る時、妻の友達ならまだ良いのだが、僕の友達が来る時はまず「どの程度まともな人か」をプレゼンするところから始まる。美術界隈の方々はだいたいダメな感じで、仕事関係の方々はまぁまぁ大丈夫、稀にめっちゃ誠実でまともな奴が遊びに来る、といった具合である。

さて。この日最初に行ったのが「長崎原爆資料館・長崎市平和会館」だ。あまり茶化したりできる場所ではない。のだけれど、広島や長崎の他施設と比べてどうにも「怒り」を出してこない空間だったことに違和感を抱いてしまった。原爆被害の凄惨さを伝えるための演出がピンと来ないというか、抗議する姿勢がそこまで伝わらないのだ。そのせいか、実際の被害もそこまで実感できず、特にショックを感じずに出て来てしまった。出て来たところにあったお土産コーナーの『はだしのゲン』を手にとってパラパラとめくって、あまりの凄惨さにビビってしまったくらいである。グロテスクな描写をすれば良い訳ではないにせよ、そういえば長崎原爆被害に関する漫画って全然ないなと気付かされた。
パッと思いつくだけで広島の場合は『はだしのゲン』や『夕凪の街 桜の国』があり、漫画ではないがChim↑Pomの「ピカッ」もあった。でも長崎の場合は特にそうした後発的な作品が見当たらず、そうしたことも原因なのかもしれない。長崎の被害に関する漫画もあればいいのに…等と簡単に言っていいのだろうか。

そんなことを考えたのち、翌日には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に訪れた。具体的には「大浦天主堂」と、その隣の資料展示である。すると、こちらはキリスト教弾圧に対する怒りがすさまじかった。そもそもキリスト教信者は日本で300年程度弾圧されており、殉教者も数多くいる。そうした殉教者の名前を一人ずつ挙げ、さらに彼らの体験した勾留(からの獄中での神秘体験、そして処刑)の様子をインスタレーション形式で展示しているのだ。絵画作品やエピソードも豊富に紹介され、ちゃんと読んで進むと「さっき紹介された人たち流罪にあってんじゃん!」等と軽くショックを受ける仕組みになっている。弾圧の過程を紹介するのが非常にうまく、こうなってしまうと長崎とは「原爆被害にあったこと以前に、長い宗教弾圧に耐え忍んだ人々の暮らした都市だった」という感想が出てくる。そうした印象が正しいかは果たしてわからないが、たしかに「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」は、ガラスの柱が地上から地下に差し込まれる構造をしている。そのことで、地下に保管された死没者の名簿に、地上の光が直接差し込む仕組みになっていて、厳かな印象を受けざるを得ない。そうなると、自ずと祈る以外にすることがないのに気づく。追悼平和"祈念"館なので当たり前だけど。さらに、差し込んだ光によって虹ができた様子が写真に写され、展示までされている。
こうしてみると長崎においては、怒りを表明すること以上に、祈ることが大切にされて来たことがよくわかる。だから、被害がどうこう拡散して伝えていくことよりも、今はとにかく祈ることが大切なのかもしれない。

大浦天主堂 外観

そういえば原爆資料館にはファットマンの実物代の模型と、それを(リトルボーイと一緒に)テニアン島にて運んでいく映像が展示されていた。下記のYouTubeと同じ映像である。なんて牧歌的な映像だろう。原始爆弾を組み立てて、接号部分を守るため黒く塗り、トラックに積んで(ついでに人も乗って)航空機の発射地点まで運んでいる。緊張感もあまり感じられない。視点が違えば同じ爆弾に関する印象はこうも違うのか。

さらに余談。もはや長崎も関係ないが、広島の西平和大橋の欄干は、イサム・ノグチが手がけたものだ。『夕凪の街 桜の国』にも出て来た(マジの名シーンである)のだけど、最近はその欄干の形状がいい具合なので、モトクロスバイクの練習に使われているらしい。不謹慎であるものの“スケートボーディングは躍動する身体による建築批判であり、都市空間の再創造である”と、もはや建築論・身体論の古典となったイアン・ボーデン著作『スケートボーディング、空間、都市―身体と建築 単行本』に書かれている以上、まぁそれはそれ…という感情が湧き上がってくるが、やっぱ不謹慎である。部外者である以上そこで練習する前に『夕凪の街 桜の国』も読んでくれたら嬉しい。

 『イサム・ノグチの欄干、自転車で乗り上げ繰り返す若者たち 広島の西平和大橋』
中国新聞デジタル 2022/7/11 付
こうの史代『夕凪の街 桜の国』(2004年、双葉社)

さて。原爆資料館を出て、朝食を食べた際に雑誌で見つけた「銅八銭」に辿り着いた我々は、懲りずにトルコライスを注文した。あ、ミルクセーキも注文したし、ミックスサンドも注文した。早い話、飢えつつあったのだ。
店内はアンティーク雑貨に溢れ、たいへん居心地の良い喫茶店だった。唯一その時辛かったことといえば、奥の座敷の客は「注文忘れてません?」と勝気なクレームを入れているし、僕の背後では大学生と付き合っているらしい女性が”相談乗るよandワンチャン的な態度の仕事の上司と思しき男性”に対して「彼氏と別れようと思う」みたいな相談をしていて、もう気が気じゃなかった。背後からギリギリ聞こえるのは、別れ話の相談に見せかけた恋の駆け引きの話と、そしてそれを綺麗にいなしながら相談に見せかけた口説き文句。アクリル板を隔てミルクセーキと格闘している妻にはあまり聞こえていない様子。というかトルコライスもそうだけど、ミルクセーキの量が多い。なんだか前提としてそもそもの量が多い気がする。名古屋の喫茶店で軽い気持ちで注文した観光客が大変な目に遭うのは有名だが、長崎のミルクセーキの量ももう少し喚起されて良いと思った(きっとお店によります)。

銅八銭の外観
銅八銭のミルクセーキ

トルコライスとミルクセーキで満たされたパンパンのお腹をぽこぽこ叩きながら、僕は妻と路面電車に乗った。一度長崎駅前で乗り換え、そのまま15年前に長崎市長が銃殺された現場を見ておく。こっちも駅前の人通りの多い場所で撃たれたんだな、と驚いた。そうして我々はなんとなく路面電車で出島に向かった。
出島そのものはもう周りを全て埋め立てられて、事実上消失したんだろうと思っていた。同じ座標の場所に何か看板でも立っているんだろうな、と。GoogleMapsで見ればわかるが、歴史の教科書に載っていた扇形の地形が全然見当たらないのだ。
そのまま出島周辺を歩いているとNIB(長崎国際テレビ)の建物があり、「ブラックサバスじゃん」と言っても妻には当然伝わらない。ためしにTwitterで呟いてみても全然反応がない。これは連帯責任として、下記にリンクを置いておくので聞いておいて欲しい。

さて、NIBを過ぎた時、ちょろちょろと流れる川の向こう岸に野良猫が歩いていた。ボンヤリその猫を眺めていると「あ、出島側に猫ちゃんいるね」と唐突に妻が呟いた。「え?出島?ここが出島でしょ?」と返すと「向こう岸が出島だよ」と妻。僕の頭上に?マークが出ていることを察した妻が「せっかくだし入ってみる?」と提案してくれた。反対側にいくと広い川の向こう側に「出島」が現れた。出島あったんじゃん。せっかくなので出島に入ったところ、この出島がなんとも良いミュージアムだった。本当に。

出島は「かつて外国人居住地だった姿を再現して、それぞれの屋敷を展示空間として見せる」タイプのミュージアムである。つまり説得力が違う。さらに遺構の上にそのままその屋敷を再現してしまうことで保存も兼ねている、一石二鳥な方法である。正直夕方くらいにもう疲れ切っていたのだけど、「まぁちょっとだけ覗こうよ」とか言いながら妻と一緒にどんどん見てまわった。とても楽しかった。
出島を見て知ったことの一部をメモしておく。
・坂本龍馬が銃の輸入をしに出入りしていた
 地方のミュージアムはこうした情報がさりげなく書いてあるので油断できない
 
・あの狭い出島の中に犬猫はもちろん、牛や豚まで飼われていた
 おそらく船の中にいた家畜なのだろう。
 当時の日本で馴染みがなかったのか豚は猪みたいな描かれ方をしていた。
 
・船長など偉い人が泊まる施設であり、船員は停泊している船の中で寝泊まりした
 妻が船員辛そうって言ってた。僕もそう思う。

・当時のヨーロッパと同じ、おまるが使われていた
 これ抵抗あるけど、この状況になったら慣れるんでしょうね
 山奥の家のトイレ利用して、使ったトイレットペーパー持ち帰ったりするしね

当時の居住空間を再現した展示 ベッドのそばにあるのが、おまる
おまる(拡大)

出島を出たあとはホテルにチェックインし、近所の食堂で皿うどんとちゃんぽんを食べ、夜は妻とTBSのクレイジージャーニーのSPを全部見た。丸山ゴンザレスの麻薬運搬ルートの取材は結構すごかった。コロンビアで生産されたコカインを自作の潜水艇で運んで米国まで運べば、コロンビアの平均年収10年分は稼げるらしい。僕は海外ドラマが好きで当然ブレイキングバッドは完走している。最近は晩御飯を食べる際に妻とベターコールソウルを見るのが常なので、興味深く見た。
けれど「そりゃ本家大本の生産地であるコロンビアには行けないよなあ」とも思った。関係ないけど父が昔出張でコロンビアに行き、コカイン撲滅キャンペーンキーホルダーとビーフジャーキーをお土産にくれた。上記リンクを踏めばわかるが、キーホルダーは樹脂の中にコカの葉と怪しい白い粉が封入されている代物だ。それを目にした兄が結構な剣幕で怒っていたのを覚えている。なんてもの輸入するんだ、と。マジなコカインだとしたら税関でしょっぴかれてるはずだが、まぁ良い。
ただそれ以上に今度は母が怒ったのがビーフジャーキーだ。というのも父が出張でコロンビアへ行ったのは2004年のこと。今の若い人たちは知らないと思うが、当時はアメリカで狂牛病が発見され、米国産牛肉輸入停止となった。なんと吉野家から牛丼が消えて、豚丼がレギュラーメニュー化されたのだ。
「こんなご時世にビーフジャーキーなんておかしいんじゃないの!?」と母は激怒し、父は「大丈夫だよ多分、いいよ俺だけ食べるから」と言って一人で夜中にもしゃもしゃ食べていた。僕も母と兄の目を盗んで戸棚のビーフジャーキーを盗み食いした記憶がある。コロンビアは僕にとってコカインとビーフジャーキーの印象が強すぎる。

【3日目 ・10月18日(火) ・長崎】

奥に見えるのがツアー船、ブラックダイヤモンド

3日目の午前中は今回の旅の目的の主目的と言っても過言ではない場所へ行った。軍艦島である。残念ながら波が高くて立ち入ることはできなかったものの、ツアー船ブラックダイヤモンドで、かなり接近することができた。
いや、立ち入ることができなかったのは正直本当に悔しいが、まぁ仕方ない。正直ツアーの内容が充実していたので上陸できなくてもかなり満足はできた。ガイドさんが高島(軍艦島の隣の島で、ここも炭鉱だった)出身の方で、かなり詳しく話してくれた。
観光地化する前の、かつて雑誌や不法侵入成功サイトに載っていた写真の軍艦島を見た時、それはこの世の果ての様で、行けば何かとんでもない秘密を得られる気がした。
だがツアーで説明を受けてある程度情報を得て見えた軍艦島はもはや以前とは印象が違い、禍々しさが薄れて立派な世界遺産として見えてしまった。自分の中で理解が進むと見え方が変わるのはよくある話で、恐ろしさというか、不理解故にまとっていたアウラ的なものが消失したのだろうと思う。
そして自分自身10年前はあんなに廃墟を観に行っていたのに、今はそんなに見に行かない。ただ当時鍛えられた「廃墟センサー」の感度は衰えておらず、地方を歩くと「あれ多分廃墟っすね」と思ったらその場ですぐGoogleMapsと検索で確認して答え合わせをしている。やはり廃墟は良い。正直、表現をする上では廃墟それ自体を描くだけでは自意識が介入する余地がなく、モチーフとしては自然物以上に難しいものがある。ノスタルジーとも直結しがちでリスキーなものだ。ただ、眺めるだけの廃墟はとても心地よい。侵入できればなお良い。書いてて気づいたが、結局まだ自分は廃墟が好きな様だ。
念の為、軍艦島をただの廃墟趣味として描かないために記しておくと、どうやら戦時中は軍艦島だって例外なく奴隷労働に近いことが行われていた。林えいだい著作『死者への手紙―海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち』にそれらが記されている様だが、絶版でさすがに値が張っているので、図書館で手に入れるしかないな…。
さて、軍艦島が観光地化できたのは、土地が三菱から譲渡されたからである。所有権の問題がクリアされれば廃墟は合法的に入れるようになることが多く、摩耶観光ホテルも観光地化への道を辿りつつある。せっかくならば、僕が一番好きな廃墟である、根岸競馬場も同じように内部ツアーとか行ってもらえれば良いのにと思う。僕の大学院時代の恩師は「根岸競馬場は中に入ったけどヤバい、霊がそこら中ウヨウヨ」とか言ってたけれども。
最後に未練がましくも、軍艦島のストリートビューをここに置いておく。

軍艦島を北東から見た写真 左にあるのは小中学校の建物で窓ガラスは全て割れ最上階は倒壊
軍艦島を南西から見た写真 左が居住空間・右が採掘場 右端にいるフェリーは上陸に成功している…

軍艦島から戻って無事船酔いし、午後はお土産を買ったり聖地巡礼をしたりした。文明堂総本店へ出向き、僕は実家宛に最中を購入。妻は職場へカステラを何本も買っていた。ついでに「カステラボーロ」や「ザボン羊羹」も購入。これらはその後ホテルでモッソモソ食すことになった。さらに近くのお土産屋さんで、かんころ餅や軍艦島ポーチを購入。店内には食品やクッキーのみならず、なんかオシャレなお皿やカトラリーも売っていて、よくない言い方だが「観光から日常へ”丁寧な暮らし”に直結する感じ」があった。まぁ欲しかったけれど家に食器は十分にあるし安くもないので我慢。軍艦島ポーチは一目惚れして買ってしまい、カメラケースとして、カメラを入れておくことにした。

文明堂総本店に向かう妻 僕のジャンパーを貸したら結構似合っていた
文明堂総本店の車が全てカステラ色 車種違うのに指定してんのかな かわいいね
軍艦島ポーチ かわいすぎるよ

さらに長崎で行ければ良いな…と思っていたお店「泰安洋行」にも行くことができた。僕の心の名盤TOP5には入る、細野晴臣の歴史的名盤『泰安洋行』もこの店名からつけられたのだ。普段はここで飲茶を食すこともできるそうで、空いてるタイミングで行けた方は是非味わってみて僕に教えて欲しい。お店の方にかなり丁寧に対応してくれた。細野晴臣のサインも見せていただいた。ありがたい。

泰安洋行 外観
細野晴臣のサイン入りCD 僕の21歳の誕生日にサインされている

中華街はどこもかしても混んでいて昼飯にありつけなさそうになかった。
かつ、妻も僕も横浜中華街には馴染み深い。なんなら僕は大学院が横浜中華街の隣に位置していた。なので「中華街は横浜のもんじゃろがい」くらいの余裕を持っており、「別に長崎で中華食べられなくたって良い訳ですし?」等と話しながら中華街を後にした。歩いていくと途中で古のインターネットカフェを発見。すかさず写真を撮る僕に対して妻が不思議そうに「なぜそんなの撮るの…?」と尋ねる。「こういうタイプのインターネットはもう絶滅危惧種なんだよ」と説明してすかさずSNSにアップすると、すぐさま何件かいいねが付いた。「そういうものなんだね…君といると知らない世界がまだまだあるんだなって思うよ」と妻から褒められてしまった。いや褒められたのか?

古のインターネット。インターネットカフェヤマコム

中華街からいささか離れるが、皿うどん発祥の地と言われる四海樓へ行くことに。妻が見つけてくれていたのだ。「ま、有名店なんて味はたかが知れてるじゃないですか?でももうお腹が減っていて何でも良いし、ま、味がフツーでもいいや」という無礼にも程がある態度をあえて自分の中で凝縮させ、高ぶる気持ちを抑えて歩いた。それほどお腹が減っていたのだ。建物が立派で期待は高まる。店内は混んでいて待つことになってしまったが、全然待つ。外の花壇に明らかに管理されていないものがあったので、そのヘリに腰掛けて待った。この立派な建物をバックに妻と一緒に自撮りするなど、楽しく過ごした。

四海樓 外観 建物全体がレストラン・お土産屋などテーマパークっぽくなっていた

外で待つこと30分弱、順番が来たので、いざ入店。角煮まん・皿うどん・ちゃんぽん・唐揚げを頼んでみた。あ、正直唐揚げは完全に頼まなくても良かった。どこでも食べられる味だった。ただし、その前に頼んだ、角煮まん・皿うどん・ちゃんぽんは確かに美味しかった。共通して全てとてもまろやかなのだ。このまろやかさこそ中国料理ではなく日本人のアレンジした「中華料理」と呼ばれるものの特徴だろう。そして魅力的なのが、店内がガラス張りになっていてとても眺めが良いところだ。窓の外の風景を眺めつつたまに妻を一瞥する、そんな優雅な昼食を堪能できた。角煮まんは、自分で角煮をはさんで食べるタイプ。是非頼んで堪能してもらいたい。

セルフで挟んで食べるのじゃ
四海樓からは港が一望できる

その後、長崎の典型的観光地である例の坂道「グラバー通り」をのぼり、大浦天主堂を見学。2日目の箇所で先述したが、江戸末期にパリ外国宣教会宣教師がここを建てた際、近所の隠れキリシタン達がやってきて信仰告白をし、驚かせたという。その後展示を見ていくと、ここで信仰告白をしたキリスト教徒達は流罪となってしまうのだが…。

大浦天主堂を出てさらに登ると通りの名前の由来にもなった、トーマス・ブレーク・グラバーの屋敷のある「グラバー園」があり、見学する。このグラバーなる人物こそ江戸末期〜明治初期の日本に影響を与えまくった人物であり、日本に蒸気機関車を持ち込み、長崎で造船・採炭を取り入れ、キリンビールを設立し、出島で坂本龍馬に銃を売っていた男である。グラバー、おまいだったのか。
さてグラバー園は天気もよく、長崎の港を一望できる本当に素晴らしいデートスポットであった。動画を撮ったので良かったら見て欲しい。
また、ここも出島のように「元あったのと同じ位置に建物を再現する」タイプのミュージアムであり、洋館に入っては展示があって楽しむことができた。我々夫婦は、それぞれ10代半ばから美術館へ足繁く通っていた。だからただ展示が好きなんだな、と今これを書きながらしみじみと実感している。


グラバー園から撮ったお気に入りの写真

グラバー園から出た後、我々は喫茶店に行ってホテルでダラダラした。妻が体調を崩してしまい早めに寝てしまった(大したことはなかったのでご安心を)ので、僕は一人お店でラーメンを啜ったり(麺がまずかった)、ランドリーに行って洗濯を済ませるなどした。ランドリーに行く際に、ほぼ全ての洗濯を済ませたいが故に、ノーパンでステテコを履いて素肌の上にパーカーを着て街を歩いた。旅行には、そんな瞬間もある。あるさ。

長崎のコインランドリー安かった 乾燥機も40分100円で凄いと思ったらあまり乾かなかった
追加で40分やったけどすごい損した気分だ モノによっちゃ20分で十分じゃんか ここに何分いたんだよ

【4日目 ・10月19日(水) ・長崎〜熊本〜大分】

さぁこの日は移動の日である。島原から熊本までフェリーで格安で移動できることに気づいた時「この旅行、勝ったな」と確信し若干脳汁出た。さぁ今日こそフェリー移動の日だ。妻もすっかり元気。いざ島原。待ってろ天草四郎。素通りしてやる。
車から見える雲仙岳がそれはそれは大きく、険しく、運転していてテンションが上がる。この頃になると「そろそろArctic Monkeysが新譜出すよな」と気づき、旅行に雑念がガンガン含まれてきたので、素直に『AM』を聞いて気を落ち着かせて車を進めた。

港に到着して乗船手続きを済まし、時間が空いてしまった。そういえば直しながら使っていたメガネが壊れてしまい、ツルが耳にちゃんとかからなくなってしまった。そのメガネにはサングラスのアタッチメントがあって便利だったのだが、耳にうまくはまらないと視界が歪んで運転していて距離感がつかみづらいのだ。
なので、以前買ってもらったメガネ(4年前に荒木さんに買ってもらった。ありがとう荒木さん)をまたつけているのだが、それにはアタッチメントがない。眩しいのを我慢して運転していたのだが、見かねた妻が「港の近くにメガネ屋さんがあるみたいだよ、いってみようよ。サングラスならあるかも」と提案してくれた。

メガネ屋さんは「メガネというよりむしろ地元の高齢者が補聴器目当てに利用している」タイプの、店主もご高齢でかなり小さな4畳半程度のお店だった。サングラスがないか聞いてみると、なんとそこにクリップオンサングラスがあるではないか!というか、そんな便利なものがこの世にあったのか。zoffやzinsも置いてくれれば良かったのに!全メガネ対応じゃないか!じゃあこの前まで「サングラスアタッチメント付きのメガネ買おうかなあ、高いなあ」とか言ってた自分が馬鹿みたいじゃないか!
定価2300円だったが店主のお爺さんが「えっこれ?あっじゃあ…2000円でいいですよ」と、値下げして売ってくれた。少なくとも10年はそこで眠っていたものらしく、丹念にホコリを拭いてくれた。真理を得るのに早いも遅いもないので良いのだ。僕がこんなに喜んでいるというのに店主のお爺さんも何だか困った様な反応だし、妻も「君がそれで良いのなら…」という具合である。こんなに便利なのに。

こうして日光に対してもう何も怖くなくなった自分は、意気揚々とフェリーに乗り込みしばしの船旅を楽しんだ。フェリー内部では国会答弁の様子が映し出され、立憲辻元が岸田にキレていた。そして知らなかったんだけど、辻元清美ってピースボート設立した人だそうだ。居酒屋のトイレにある世界一周船旅のやつ。

クリップオンサングラス この旅一番の買い物と言っても過言ではない
フェリーに乗り込んだ車
さよなら雲仙
向こうに見えるは熊本

さて熊本に上陸し、上通というアーケード商店街にてチキン南蛮を食べた。宮崎と近いし美味しいだろうと思ったのだ。たかもとやというチェーン邸で、黒酢ダレが効いていて美味しい。ただ量が多い。揚げ物の威力は半端ない。アクリル板を挟んだ妻がムキになって完食していた。くれると思ったのに。昼食を終えて歩いていると、そばに古書汽水社という古本屋があった。アート人文系の本も多く置いていてレコードまである。近年すっかり見なくなった建築論の本も多くある。
そういや建築系の本って最近見かけなくなったというか、僕が学生の頃は藤村龍至が期待のホープとして論壇にいたのだけど、彼以降で新たなホープっていらっしゃるのだろうか。
古書汽水社では、ギターマガジン19年10月号を購入。ネオソウルギター特集である。妻の音楽趣味はラテン系やジャズで、僕はどっぷりロックとR&Bなので、お互いうまく被るジャンルがファンクだったりソウルだったりする。僕は今でもファンカデリックのPVに入って一緒に踊りたいし、妻はスライが好きである。そこでよく黒人音楽の本をめくってみて出たページの曲をサブスクで聞くなんて行為をしている。だからネオソウルギターを適当に選んで効いていけば良いじゃんと思い、妻に適当に選んでもらった。結果聞いていたアルバムがこちら。

これを聴きながらオシャレドライブを決行。阿蘇山に近づくに連れて風景がものすごい良くなっていく。
草千里ケ浜に到着し、妻が調べてくれていた草千里珈琲焙煎所へ直行した。急に中目黒みたいな店内にたじろぎつつも、エスプレッソとコーラが混ざったやーつを飲み、なんとも美味しい。
草千里ケ浜では馬が飼われていて妻が興奮していた。どうやら妻は馬が結構好きで、ハウステンボスでも馬にニンジンをあげて愛でていた。僕も将来馬になろうかな。しばらく歩くと駒立山という小さい丘もあり、登ってあたりを見渡すことができた。人里離れて絶景に囲まれて、非常に良い気分だった。

駐車場から火口が見える 煙がガンガン出ている
馬は放牧されている 馬のお尻は四角い 馬の後ろに立ち回ってはいけない
草千里ケ浜は広い平原みたくなっていて、池がふたつある
カフェラテ飲みながら闊歩する妻
駒立山から駐車場を振り返る
火口を望む妻

↑妻が撮影した草千里ヶ浜

16時くらいに草千里ケ浜を出て、次の宿に泊まる。虎乃湯というところで、仕組みはよくわからないがとにかく安い。阿蘇くじゅう国立公園内にあるからだろうか。まずは阿蘇山を降りてそのまま進んで別の山をのぼって九重連山を目指すドライブだ。これが絶景続きで、特に途中のやまなみハイウェイでの景色が本当に素晴らしかった。素晴らしい景色を前に、文章で装飾する術を僕は持ち合わせていない。妻が動画を撮っていたのでそれを載せておくので是非見てほしい。なんとなく夕方の山間に寂寥感を抱いたりもした。

助手席から1
助手席から2
あまりに夕陽が美しい
夕日に照らされた山々
日が暮れる直前

すっかり日が暮れてから、宿の「虎乃湯」に到着。夕飯と朝食もついて二人で1万円程度なのがとても嬉しい。山の幸!というメニューではなく、美味しい定食が揃っている。ここで連続して食べたチキン南蛮が胸肉を使用した宮崎仕込みの甘いもので、本当においしかった。宿も料理も料金次第でグレードアップさせることもできるのだが、十分満足である。そもそも泊まった部屋は4名まで泊まれるタイプの部屋で、結構広い。エアコンもあるし、良い感じのコテージだった。
もちろん温泉付きで、大浴場の他に貸切露天風呂もあった。妻が体を洗っている隙に、湯船の岩の端に両手を、もう端に脚をつけて湯船の上に浮かび「橋」というギャグをやったら妻にそこそこウケた。
その後ビールを飲んで寝たのだけど、少し肌寒くなってからビールがうまくってしょうがないぜ。

【5日目 ・10月20日(木) ・大分】

朝目を覚まして自分がどんな宿に泊まっていたのかを知る。山間にある、とてものどかな宿だった。コーヒーを飲みながらあたりを散策し、朝食を食べた。ただこれはマジの苦言なのだが、この宿の食堂は常にゆるキャン△のアニメサウンドトラックを再生しており、まったりしてるとどうしても音楽に意識を持っていかれて、なでしこ、イヌ子、大垣が頭に浮かぶ。本当にいい雰囲気を醸し出しているけど、アニメちゃんと見た勢としては気が散って仕方がなかった。

宿の周り
この景色眺めながら飯食って、ゆるキャン△のBGMを聴くのだ…

山を降りて由布院に到着。ここ由布院は結構儲かってそうな観光地で、とり天がとりあえず有名なようである。とり天は出前やスーパーのお弁当で食べるばっかで、正直良い印象がなかったのだが、非常に美味しかった。
他にもコロッケを店先で買って食べ、ソフトクリームを食べ、金鱗湖を見た。特筆すべきことのない、何のてらいもない観光をしてしまった。
また、キャラ物のコラボ土産物屋があり、ミッフィー、スヌーピー、ウッドストックなど。ウッドストックはスヌーピーの隣にいる黄色い鳥のことで、あのサブキャラに一店舗任せられんのかよ(本当に失礼)と勝手に不安になったが、中には可愛いポストカードや、マグネットが売っていて、妻が散々悩んで購入していた。

この一本道を観光していくのじゃ
金鱗湖 そういえば九州の女学生は皆スカート長めに履いてる気がする 膝下までちゃんとおろす

母の友人で、ご飯を奢ってくれたり、バーミキュラの鍋をプレゼントしてくださったり、お世話になっている方がいるので、彼女のためのお土産も購入した。
由布院 鞠智(くくち)という洋菓子店である。おそらく由布院で洋菓子を買うならここなんじゃないかと思う。店内で製造しているところも高感度高い。
カフェスペースもあり、なんと焼きたてのどら焼きを食べることができる。
妻がやや興奮しながら注文していたので少し分けてもらった。
このあと帰りにとり天も食し、これであとは宿に向かうだけとなった。

ほうじ茶とどら焼きを注文した妻 漬物がついてきて、これがまた美味しいそうだ
ハンバーガーみたいな見た目のどら焼き とてつもなく美味しい

さてこの日はとても良い宿を予約していたので15時にはもう宿についていた。その宿こそハイパー高級宿「山荘わらび野」であり、今回の旅の主目的とも言える。そう。全ては山荘わらび野に向かうための旅だったのだ。ちなみに今回旅行出発直前に政府の旅行支援が発表され、何か悪あがきできるように我々夫婦のワクチン接種証明書を持って出発したのだが、それがここで生きた。割り引かれたし、さらに地域復興券的なものを6000円得られた。この6000円で我々は夕食時のドリンクを頼み、その後バーカウンターでお酒を飲んだ。僕はともかく、妻はあまりお酒を飲めない。従って我々夫婦は居酒屋にそもそも行かず、二人で飲むことが結構珍しいので、なんだか贅を極めた気分だった。
そしてこの宿でまたダラダラ過ごした。内風呂には合計3回入ったし、自分がこんなにも幸福でいいのかわからず、温泉で伊藤詩織氏の記事のヤフコメを読んだり西太后について調べたりしていた。

山荘わらび野 ぽつぽつとコンクリート打ちっぱなしの建物があり、そこに泊まる
館内着で立ち尽くす僕
我々の泊まった宿
山荘わらび野室内 ウェルカムスイーツはもう食べた後

これまで雑な旅行を繰り返してきた自分にとって、こういった高級ホテルは初めてで、信じられないくらい快適だった。実は仕事で2年弱都内の高級ホテルに足繁く通っていた。有名どころはだいたい訪れたと思う。椿山荘最上階のスイートも入った。ただそうした経験の上で考えると、正直都内のホテルの部屋でいい思いをするのも良いものの、地方の高級ホテルでだだっ広い空間を支配して良い思いするのもかなりアリなんじゃないかと思った。椿山荘の1泊120万するスイートと、山荘わらび野だったら、圧倒的に後者だ。源泉掛け流しだしな!
さらに湯布院は地味に料理が全方位に向けて美味しい。海が近いためカンパチの刺身も絶品だったし、大分和牛のステーキも美味しかった。郷土料理「りゅうきゅう」はカンパチのぶつ切りをタレで和えて食べるものだった。これ、お茶漬けで食べるのが本当に美味しく、いつまでも食べていたかった。

りゅうきゅうのお茶漬け

【6日目 ・10月21日(金) ・大分〜福岡】

山荘わらび野のサービスは半端ないので、冷蔵庫にはミネラルウォーターのほかにビールが2本入っていた。キリンの一番搾りである。普段飲まないけど悪くないラインナップだ。これを持ち帰ってもいいのか、持ち帰ってもさもしくないか妻に相談し、無事持ち帰ることにした。

朝ご飯もすごかった 父上様 母上様 かますの塩焼き、美味しゅうございました

チェックアウトして高速道路を飛ばす。なぜか中島みゆきのシングルだけがAmazonプライムミュージックで聴けることを発見した我々は、『わかれうた』『時代』『ファイト』と、どんどん名曲を聞いてドライブを続ける。中島みゆきはギリギリ僕の世代くらいまでは大ヒットした人として記憶されている歌手で、紅白でなぜか黒部ダムで地上の星を歌っていたのを覚えている。今の若い人なら『麦の歌』だろうか。
聞いていて感じたことだが、シングルで聞いてみると90年代半ばから00年代半ばまでの中島みゆきは少々おかしい。『空と君の間に』『糸』『地上の星』『銀の竜の背に乗って』このあたりである。
恨み節を歌い、戦う者、戦ってきた者を称えた70年代、キャラクターを演じることを可能にしたものの低迷した80年代、そして突然その時代が欲する物を先取りして与えられる才能を得てしまった90年代。この90年代はなんだか中島みゆきの作品としては異様に抽象的かつわかりやすいのだ。この「抽象的なことを歌っているようで、なんとなく気概がわかる」感じこそ、いかにもその時代のJPOPらしいというか、聞いていて妙にこそばゆくなってしまった。

さらに中島みゆきと言えば槇原敬之である。いやおかしいことを言っているようだけど、マッキーのカヴァーするみゆきの曲が素晴らしいのだ。すぐ見つかるから来てみてほしい。なので助手席の妻にマッキーをリクエストして流してもらった。信じられないことに妻は『もう恋なんてしない』を知らないというので即座にかけてもらった。本当に時代を超えた名曲だと絶賛していると妻が「中島みゆきも槇原敬之も、世の中でメジャーとされているもので君が好きなものもあるんだね」と辛辣にもほどがある言葉で僕を突き刺した。確かに僕ははじめて買った邦楽CDが村八分だったり、マスコミで働いていたくせに瑛人の香水を一度も聞かずに済んでしまい、この新婚旅行中に自ら再生してギター弾き語りだったことに衝撃を受ける等、俗世間からのズレっぷりを体現したエピソードを数多く持っているものの、そこまで言うことないじゃんか。しょげていたら太宰府天満宮に到着していた。

太宰府天満宮では、これまた本当にわざわざ言わなくてよいことなのだが、現代アート作家が超雑なコラボ作品を展示していた。フラワーギフトのデザイナーとして有名な、ニコライ・バーグマンが至る所に、フラワーインスタレーションとも言うべき屋外展示作品を展示していた。これが正直かなりのやっつけ作品で、ろくに太宰府のリサーチ等はしていないことが丸わかりの作品だった。まあ花にしか興味ないんだろうな…。
ただこれは、コンセプチュアルな現代美術ばかり見て学位を所得した立場の意見である。こちらコンセプチュアル畑からすると、華道という「道」がつく伝統芸能は、かなり対極的な存在だ。大叔母が草月流の勅使河原蒼風の弟子だったので、昔僕もほんっっの少し華道を教わったり、展示を見に行ったりもしたのだが、「道」がつく伝統芸能(習い事文化)は縦社会であると同時に、そうした集団の中でマチエルをどちゃくそ大切にする。つまり華をいける以上、その華への理解や季節風土ごとのチョイスが重要なのだ。なので中途半端にコンセプチュアルなことをせずに、日本ないしは九州地方の植物への理解を深めた作品であれば良かったのではないだろうか。あるいは、彼が太宰府で展示したような「若干説教くさいものの、特に特定の信条もなく、何も主張してこないタイプのパブリックアート」こそ「大衆に何かわかった気にさせてちょうどいい」のかもしれない。「成長を表現しました」みたいな雑なやつだ。きっと企業コラボ案件が多過ぎて、そうした「毒にも薬にもならない」作法が身についているのだろう。
観光客は皆次々に列を作って、ニコライ・バーグマンの作品を写真に撮っていた。太宰府の他の建物と同列の扱いだ。大人気である。30過ぎて知名度ほぼゼロの僕は、それに嫉妬していたのかもしれない。しかしニコライ・バーグマンでここまで書いてしまったので、もっとひどかったライアン・ガンダーとサイモン・フジワラに関しては本当にひどいことを長文で書いてしまいそうなので割愛する。とにかく僕はムスッとして太宰府を後にして、松屋のやたら豪勢なお庭で梅枝餅を食べて機嫌をなおした。梅枝餅は本当に美味しく、まだ熱いままホカホカのを食べるのが良かった。ただし賞味期限が早いので土産には向かず、妻は土産に買うことを断念した。妻はまるで直前まで雑な現代アートを見てブチギレていた僕のように、静かに感情を噛み殺していた。

妻が頼んだ抹茶と梅枝餅のセット

その後、門司港まで一気にドライブし、車内でかつてT.RexとAC/DCの単純さがウケまくった話をしたが、もう中島みゆきの話もニコライ・バーグマンの話もマジで蛇足な気がするので流石に割愛する。あと道中で例の北九州のヤクザの屋敷を発見し、助手席の妻に「お城あるよ!」と教えてあげた。お城が見れて良かったね。
門司港は「もはや船を渡ったら下関」という状態で、九州最北端の港町である。ここでもまた妻と一緒に海を眺めた。

はね橋「ブルーウィングもじ」から撮影
この旅行で何度妻と海を眺めただろうか 二人とも海を眺めるのが好きだ

夜、博多に戻って中洲の宿のチェックインを済まし、外をぶらついた。
名もなき実昌に教えてもらった、忠助という屋台でラーメン・おでん・とん平焼きを食べ、瓶ビールを2本飲んだ。入りやすく楽しい食事であった。だいぶ酔っ払ったが、妻と中洲を一緒に歩いた。中洲は、新宿と川崎を足して2で割ったような雰囲気がある。良いところだ。
進んでいくと三味線の演奏が聞こえてきた。どうやら地元で有名な方らしいが歌っているのが春歌なため、まぁただのエロ歌でもある。妻が「うわぁ」と明らかに引いているので少し聞いてからすぐ通り過ぎた。そのまま歩いていくとベースを引いているストリートミュージシャンにも遭遇したが下手なので無視して、ずんずん歩いていった。妻は「川があってそれっぽい雰囲気出るからストリートミュージシャンにも良いだろうね」とまたグサグサくる物言いを無自覚に放っていた。

中洲のようす おわかりいただけただろうか
どっかから船が流れ着いていた

【7日目 ・10月21日(金) ・福岡〜ただいま】

朝早く起きて、大濠公園へいくことにした。中高の親友がかつて博多は大濠公園の近くに住んでいて、おすすめのパン屋さんを教えてもらっていたのだ。
「ラ・ブリオッシュ」というお店で、ここで買ってコーヒーを飲みながら大濠公園の池を眺めるといいらしい。後先考えずに3000円くらい使ってしまったが「まぁいいや!」つって大濠公園で優雅に朝食をとった。

ラ・ブリオッシュ 外観
買いすぎである


優雅にTwitterしながら食べている お腹が出てズボンの上に乗ってるのにも注目

大濠公園で池を眺めながら食べる朝食は最高だった。隣で妻が「水鳥が池に潜ってる!なかなか上がってこない!」とベタに驚いていたので「鴨だって朝ごはん食べるでしょうよ」と返す。パンはどれも美味しかった。カレーのやつが特に美味しかった。それから、食べきれなかったパンはしまって池の周りを歩いた。ランニングしている人が多くいる中、二人で手を繋いで歩いた。改めてこう書いてみるとなんとも照れ臭いが、もはや二人で手を繋ぐことはいたって自然であり「さすがに夫婦っぽくなってきたな」等と感じる次第である。とはいえ手汗かいて申し訳ないので我々はすぐに手を離してしまう。結婚する前は妻が「手汗をかいたから」と即座に手を外すことに何か他意があるのではとかんぐっていたが、今からしたら何も気にする必要はなかったのだ。
結局、池を半周して宿に戻った。妻は10-13時でリモートの予定があった為、ホテルのワークスペースにとどまることになる。その間に僕は博多の老舗レコードショップ「ジュークレコード」に向かった。
そもそもこの空き時間はレコードでも見ようかなと考えていたのだが、なんとジューク・レコード創立者・松本康が9月28日に永眠。ジュークレコードは45年の歴史に幕を閉じることを発表し、僕が訪問した日はまさかの80%OFFのセール初日だった。そんなことある?「サンハウス6人目のメンバー」という二つ名を持つ松本氏はめんたいロックを支えた超重要人物だ。そんな彼のレコード屋の80%OFF、僕は開店30分前に並んだが既に8人目。11時に開店した際には店内は大盛況というかなんかもう騒動という具合だった。後ろの方でおじさんが「考えるより買う方が早いなぁ」と呟いてレコードを次から次へと買っていたのが印象的だった。僕も確かにそうだと思い、僕も手当たり次第買った。店内はジャズのレコードが意外と少なく、ラテンミュージックとR&B、ヒップホップにスペースが割かれていた。ロックのコーナーもあったが興味のある盤はやはり無く、ジェフ・ベックのWiredがあったが無視してしまった。昔からなぜか興味を持てなくて…。
購入物を一応下記に記しておく。

LP 袋から取り出した順
Laurent De Wilde "Off The Boat"
Mark Helias, Gerry Hemingway, Ray Anderson "You Be"
Camarón de la Isla "Con Tomatito"
The Ruby Braff & George Barnes Quarte "Live At The New School"
Velha Guarda Da Portela "Homenagem a Paulo da Portela"
Sergio Mendes & Brasil '77 "Golden Double Series"
Leila Pinheiro "Bencao Bossa Nova"
Johnny Guarnieri "The Duke Again"
Simone "Ao Vivo 1979"
Eddie Condon And His Chicagoans "That Toddlin' Town"
Harvey Mason "M.V.P."
The Fabulous "Flamingos"
Clara Nunes "O Canto Da Guerreira"
Clyde McPhatter With Billy Ward And His Dominoes 1957年の盤のリイシューStan Kenton "Plays Chicago"
Joe Sample "Oasis"
Ray Charles "Ain't It So"
Meli'sa Morgan "Good Love"
Jack Teagarden "1944 Big Band"
The Cleftones "Heart And Soul"

CD
Cab Calloway & His Orchestra "1939-1940"
Cab Calloway & His Orchestra "1941-1942"
Cab Calloway & His Orchestra "1942-1947"
Joni Mitchell "Court and Spark"
Neil Young "Massey Hall 1971"
Neil Young "Mirror Ball"

LPとCD合計で7400円だった。端数はカットされて8割引された。
LPと着替えとその他のお土産をまとめてクロネコヤマトから発送した頃にはもう13時前になっており、ホテルに戻ってそのまま妻と合流した。何かガッツリしたものが食べたいという妻を二代目けんのすけに連れていく。入った途端豚骨の匂いがすごくて、自分の内なる壱百萬天原サロメが「くっせぇですわ」と呟く。妻も同じことを感じたらしく何やら興奮している。こういった、普段滅多に入らないタイプのお店も旅行先なら行けてしまうものである。結婚指輪買った帰り、新宿の博多天神行ったよなぁと思いながら、とんこつラーメンを堪能した。

その後は天神地下街を歩き、大丸でお土産を追加で購入した。天神地下街は横浜市民的に言わせると「ダイヤモンド地下街をよりオシャレにした感じ」なのだが、天井の装飾には舌を巻いた。ここまでする必要なくない?と思いつつ、歩いているだけで楽しかったのも事実だ。

それぞれ通りによって天井の模様も異なる

おわりに

お土産を買った後は夕方の便で羽田に帰ってきた。そのままバスと電車を乗り継いで家路につき、帰宅して寝て起きてこの文章にとりかかって今に至る。こんな旅行記に二日間費やしてしまったが、個人的にはこういうことをしておくべきだと思っている。まぁ1週間も旅行していれば脱線もするし疲れる。物語と違って最後に大団円があるわけではない。ただ、決められた日程を遂行したというよりも、脱線やふざけることを受け入れた旅行だった。結果ハウステンボスはかなり中途半端な見方をしたとも言えたし、2回連続でトルコライスを食べ、2回連続でチキン南蛮を食べている。歩き疲れた時もあったし、体力が余って漫画を描きたくなった夜もあった。素直に寝たけど。阿蘇から九重連山にかけての景色は忘れられないものになったし、クリップオンサングラスも買えた。偶然例の城を見ることもできた。そして、妻と二人で何度も海を眺めた。そうだ。我々は九州の北半分で大いに浮かれてイチャついてきたのだ。僕はここに記されることのなかった数々の他愛のないやり取りに想いを馳せ、そしてそれを今後も続けていこうと思う。そうして我々は、観光客から市井の人々に戻っていく。

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