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マンガエスク・ノート——鉛・インク・静電気の匂い

摩擦とは机上の空論を現実のものと化す力である。

石川九楊『筆触の構造』筑摩書房、2003年、70p

はじめに

 それが走るラン——残るラインにじむ黒いインク。昇る墨汁スミめいた匂いノート
 型番ナンバー=PG-6B-C-K。すずメッキのボディに凹凸された大文字のグランド「G」。その上にはZEBRAゼブラのロゴとともに「TOKYO JAPANトーキョー・ジャパン」という国名が刻まれている。垂直に圧をかければ流線型の鋭角に研ぎすまされた尖端が二手に分岐。その隙間をしたたり落ちる黒い雫——Dr.Ph.Martin’sドクターマーチンはラディアント。
 ——と、英数字を羅列するだけで、森博嗣もりひろしは『スカイ・クロラ』よろしく、戦闘機クロラか何かの小説を書いているかのようなえつに浸れる。しかし、ぼくが書き散らしているのはそんな雲の上の空中戦ドッグファイトではない。なんのことはない。ぼくはいわゆる付けペン——Gペンについて描写しただけだ。
 そしてこのノートは、ぼくがふだん携帯しているMacBookマックブックでもiPadアイパッドでもiPhoneアイフォンでもなく、KOKUYOコクヨの原稿用紙の格子グリッドの上を飛翔しては着地をくり返すそれ——Gペンによってアナログに執筆されている。
 内容は、漫画における画材——絵描きとしてのよそおい——について、としておく。あくまで一筆書き。後戻りはしないこと。ペンスピードはできるだけ速く、線がブレないように。

「書く」から「描く」へ

 高校2年生のときに先輩から京極夏彦きょうごくなつひこの『姑獲鳥うぶめの夏』を渡されたことをきっかけに本格ミステリにはまり、将来は推理小説ミステリ作家になることを夢見た。その後、デザイナーでもある京極のキャリアをなぞるようにデザイン系の専門学校に入学したが、作家になるにはきわだった専門性が必要だと思い直し、大学の再受験を志した。志望校には幸運にもストレートで合格できた。
 つまり、最初は「書く」ことに関心が向いていた。しかし、大学でデザインの思想や歴史を学び、先輩からSF小説などを勧められるうちに推理小説への興味を急激になくすことになる。そして大学4年。卒業制作を前に迷走していたぼくに指導教官が告げた。
「マンガでも描いてみたら……」
 この一言は、デザインという美術系の領域に習熟するにつれて強まっていった「絵が描けない」というコンプレックスを、ガラス片のように鋭利に刺激した。
 結果、恩を仇で返すかのように指導教官の推薦でもらった内定を辞退し、ひとり渋谷シブヤ神泉シンセンのアパートにこもって絵の練習を始める。それから丸々4年間、ぼくは多くの友人を失い、不眠症、双極性障害Ⅰ型なども患うことになったが、それはまた別の話である。
 つまり、ぼくは「書く」ことをやめて「描く」ことを始めた。当時の彼女にもらい、初めて使ったクロッキー帳の表紙には2019年1月7日という日付が書かれている。20代も半ばに差しかかったときだ。

鉛筆——鉛の感覚について

 アニメ私塾の塾長があちこちで主張しているように、スケッチブックやコピー用紙を積んだ高さの数だけ絵はうまくなる。そのアニメーターがスタジオジブリに入るまでに描いた紙の山の標高は1mにもおよんだらしいが、絵描き歴の浅いぼくのそれは20cm程度の紙の丘だ。いずれにせよ、その丘を築く過程で、ぼくはシャーペンと鉛筆の違いを知ることになった。
 絵を描き始めたとき、最初はGRAPH 1000グラフ・ミルという、文房具オタクの間では定番の製図用シャープペンシルである。ぼくはこれを中学2年生のときの塾講師から教えてもらって以来、愛用していた。
 シャーペンは速度や傾きで多少のタッチは出せるものの、基本的には均一な線しか引けない。クロッキーを重ねるうちに線の抑揚を付ける必要を感じたぼくは、小学校ぶりに三菱はuniユニの鉛筆を手に取ることになる。
 鉛筆は削る手間さえ惜しまなければ、非常に万能な道具である。尖端を立たせて0.2mmのシャー芯よりも細い線を引くこともできれば、寝かせて「面」で塗ることもできる。また、シャーペンよりも紙と接地する面積が広いため、鉛がよく摩擦する。その繊維と繊維がこすれ合うような乾燥した音も心地よい。筆触、音、匂い。「描く」という感覚を五感で味わうのにこれ以上の画材はない。
 こだわりを言えば、ぼくはPentelぺんてるの青鉛筆を使っていた。青の鉛は印刷のスキャンに反映されないことから仕上げのときに消さずに済む。また、完成形の絵を描くという意味では物足りないところが逆に、ペン入れへの欲求を刺激してくれた。ただひとつ、断面が正六角形ではなく円なのが子供っぽくて、かたちから入るぼくにとっては不満だった。

付けペン——インクの難について

 絵を描き始めて半年。いよいよ付けペンを握ろうと思い、新宿世界堂へ足を運んだ。
 付けペンの線の引き方は、他のあらゆる画材と比べても異色である。まず、右利きの場合、基本的に左上から右下にしか綺麗な線が引けない。なので、大きな円を描くときなどは原稿用紙を360°回転させながら描くことになる。それを面倒くさがったり、間違えた方向へ線を引くとたちまちガリガリガリッという警報めいた音が鳴り、インクは飛び散り、ペン先は開いて劣化することになる。しかも、最初は劣化しているのかも新品であるのかもよくわからないから、替え時もわからない。仕組みなども含めてとにかく「よくわからない」画材だ。
 そして何より、一番の時間を要したのは筆圧ペンタッチの付け方だった。狙った位置で線を太くする。たったそれだけのことがよくわからなかった。ペンスピードを速めればいいのか? ペン軸を持つ指に力を入れればいいのか? ペンの持ち方が間違っているのか? 自分のなかで正解と思われる感覚が「ペンを垂直に下へ押す」に近いとわかるまでに、最終的に2年間もの時間を費やすことになった。
 最初はどのペン先がよいのかもわからず、ZEBRAゼブラNIKKOニッコーTACHIKAWAタチカワといったメーカーから出ているありとあらゆる種類——Gペン、ハードGペン、丸ペン、カブラペン、スクールペン、ミリペン——を買った。マンガ家入門キットといった胡散臭い商品にも手を伸ばした。毎週のように世界堂やAmazonアマゾンで新しいペン先やペン軸、教本を探し回っては、注文しまくった。あげくの果てには、昔のプロが使っていたことでおなじみだが、現在は廃番であることから2万円もするMAXONマクソンのペン軸をメルカリで買ったこともある。
 そこまでしたのは、画材を変えれば絵がうまくなるという、なかば祈りに似た狂信があったからである。ぼくはずっと気が気でなかった。いつになったら付けペンを操れるようになるのかが、出口イグジットがまったく見えなかったのだ。このスランプに乗じて、話も思いつかなくなっていった。Dr.Ph.Martin’sの匂いが染み込んだ部屋で、酔って溺れるのみだった。

液タブ——摩擦と静電気について

 iPad Proアイパッド・プロを買ったのは、「遊☆戯☆王ゆうぎおう」の作者である高橋和希たかはしかずきが作画に使っているという話を聞いたからだ。Gペンからの逃避、という意味合いもあったかもしれない。
 実際に届いてみると、それは驚くべきクオリティだった。通常の液晶タブレットにつきものの視差——ガラスと液晶の間の間隔によるカーソルとペン先のズレ——もなく、さながら鉛筆のような書き味だった。実際のGペンのような線を引ける設定を見つけるまでに半年くらいかかったが、これが今でもぼくの漫画制作における中心的なツールになっている。
 しかし、この進化で失われたこともある。
 まず第一に、鉛筆に中心がある一方で、Apple Pencilアップルペンシルには中心がない。Apple Pencilは中心としての芯=尖端を持たない。鉛筆を模した円錐の先端は頂点ではなく半球になっている。
 第二に、Apple Pencilの線は、紙とペン先の摩擦の痕跡——線ではなく、プラスチックとガラスのあいだに生じる静電気の軌跡——点の連続体として描かれる。鉛筆やGペンのようなアナログな画材とはまったく異なる仕組みだ。
 そのために、iPadのディスプレイ上では、かつての紙とペンの間で生じたような摩擦は現象しない。ペーパーライクフィルムという保護シートで紙と鉛筆の摩擦を擬似的に再現する向きもあるが、しょせんは偽物フェイクである。摩擦の残滓である匂いノートを残さないからだ。
 だから現代のマンガ家が制作の際に嗅ぐ匂いといったら、端末が過熱した際に香るオゾンの臭気——それくらいだろう。鋭角に傾けた木製の机に突っ伏してまどろむことも、Dr.Ph.Martin’sの匂いで〆切を思い出してはね起きることも、もう、ない。匂いノートは、幻になった。

このノート=匂いについて

 このノートはGペンによって書かれた。多少インクをこぼしたり、誤字はしたが、幸いなことにほとんど後戻りはしなかった。
 一方で、iPadでしか絵を描かなくなったふだんのぼくは、後戻りリ・ドゥしてばかりいる。iPadでは二本指で画面を二度叩くことで魔法が発動する。タ・タンリ・ドゥタ・タンリ・ドゥタ・タンリ・ドゥ——リズムを刻みながら無言の詠唱。
 後戻りといえば、最後にひとつ。
 デジタルにおける作画では無限に後戻りできるが、デジタルに順応した人間がアナログに戻ることは難しい。デジタル作画においてはインクが乾くのを待たなくてもいいし、付けペンのような線の引き方をする必要もないし、そして何より、後戻りすることに慣れてしまっているがゆえに後戻りを恐れてしまう。アナログからデジタルへの進化は、どこか一方通行リニアなところがある。
 ただ、インクを修正液で消せるように、アナログで一方通行な時空間——ティム・インゴルド『ライフ・オブ・ラインズ』——人生でも、少しだけなら後戻りすることができる。ぼくが専門学校から大学の再受験を志したように。ぼくがアラサーになって初めて「描く」ことを決めたように。ぼくが今、郷愁にふけりながらGペンを握りしめているように。
 そう。ぼくはいま少し後戻りして、Gペンを握りしめながら、たどってきたよそおい——画材について考えている。絵を描き始めて以来、ぼくは多くの画材を捨ててきた。画材を、よそおいを変えればうまくなる——この狂信に取り憑かれて、あまたの画材を購入し、試しては、捨ててきた。
 しかし、なんのことはなかった。某アニメーターが言っていた通り、絵がうまくなるためにはとにかく紙や思考の山を——摩擦を積み上げるしかない・・・・・・・・・・・・のだった。ひたすら紙にクロッキーを描き殴り、紙に物語のアイデアを書き残すこと。それはつまり、ペンと思考の摩擦で世界を想像=創造するということ。いくらよそおいを繕って一時的にうまくなっても、それは実力ではない。プロは画材を選ばないのだ。
 後戻りはしない。しかし、それは必ずしも忘れるということを意味しない。匂いノートは記憶を喚起するトリガーだ。Dr.Ph.Martin’sの匂いを嗅ぎながらぼくは思い出す。渋谷は神泉にある16平米のアパートで過ごした2年間が、今のぼくの線を、絵を、人生を織りなしていることを思い出す。
 まもなくこのノートは終わる。ぼくはGペンを置く。そして、匂いが漂白ブリーチされた部屋で白い鉛筆を走らせるだろう。RGBで明滅するなめらかな紙面の上で、偽物の摩擦フェイク・フリクションと、限りなく幻に近い静電気の匂いスタティック・ノートを感じながら——。

※このエッセイは2021年秋の文学フリマにて頒布した『よそおい』という同人誌に所収されたものをリライトしたものです。

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