まわりとの浮いているという感覚
物心ついたときから、他者と比較して私は「浮いている」とかんがえていた。
小学生のときから私は同級生と、まさしく水と油のように全くと言っていいほど「なじむ」ことが出来ず、「浮いて」いた。
同級生の女の子達が話す内容、行動に対して「何がそんなに笑けることなんだろう、面白いのだろう」とずっと不思議でいた。
ただ、バカ正直に笑わないでいるのも余計気味悪がられるので、にこにことわらってばかりいた。そうやってにこにこしておいて、数年経てば同じような人間になっていてついていけるかと思いきや、余計乖離していき、今となっても理解できないままでいる。
それがきっかけだったのかは分からないが、小学生の頃私はいじめを受けていた。
ただ、当時は「浮いている」から。気持ち悪い思いをさせているのは自分だから、、と申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
しかし、なにがどう変われば普通になれるのかさっぱり分からずで、更ににこにこすることを極め、気持ち悪がられていたようにおもう。
正直私は「浮いて」しまう自分が100パーセント悪いとおもっていたのだ。
中学生、高校生になってもその感覚は抜けることはなかったが取り繕う能力は培われていたこともあり「なじんでいるようにみせる」努力を日々欠かさなかった。ただ、慣れることは無かった。疲れ果てていたようにおもう。
今思い返すと、あのときの私は浮いているという感覚を他者に感じられたくなく必死だった。そのため、ひとりでいることにとてつもなく恐怖を感じていた。
だから、常に私は誰かと一緒にいないと「浮いている」ということが筒抜けになって、バカにされてしまうのではないかと毎日怯えていた。
自分に価値観などひとつも見いだせずにいた私は、他者からの評価でしか存在価値を与えられない人間なのだと思っていた。
そうして私は、誰かとくっついていれば、馴染んでいるふうにみせることができるとかんがえていたのだ。
浮いているという感覚には2種類あると感じていて、ひとつは私が学生時代に感じていたような「劣等感」から成るもの。普通を追いかけるがあまり、自分を見つめることなんてすっかり忘れてしまうのである。考えるのは自分と他者との天秤ただそれだけである。
もうひとつは、「自己効力感」から成るもの。
自分の価値を見出し、自分が他者になんらかの効果を与えることのできる価値ある存在だと認識することは、その他大多数の他者との差別化を感じること。まさに「浮いている」感覚と同等のものだとおもうのだ。
私たちはきっと前者に囚われるべきではなく、「自己効力感」をもとにした「浮いている」感覚を大切に、自身の価値観の根拠としなければならないのだろう。
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