頭を整理したいけど、できなかった。【創価学会3世のブログ#4】

僕が20歳の時、毎日聴いていた曲にRADWIMPSさんの有心論がある。
(聞いたことがない方は上の太文字をタップ↑)

「誰も端っこで泣かないようにと 君は地球を丸くしたんだろう?」
「誰も命 無駄にしないようにと 君は終わり作ったよ」

この曲には、20歳の僕にはなかった感性が散りばめられていた。
同時に、「この世から隅っこで泣く人をなくしたい」「命ある限り一生懸命に生きたい」と思った。

あれから10年。最近、当時の自分と今の自分を比べることがよくある。「このままでいいのかな」→「よくないような気がする」→「じゃあどこを変えていく」→「いや分からん」をただループしてるから、とりあえずこういう感情も忘れずにいたいなと思って、未来の僕に宛ててブログを書いている。

雨の日に出会った兵庫の婦人

20歳の時、人生で忘れられない出会いを経験した。
2012年5月3日、その日は雨だった。
当時、僕は創価学会の本部で兵庫からきた婦人に声をかけられた。
「お手伝いをお願いしたいんですけど」
僕は少し戸惑いながら「何をすればいいですか」と伝えた。
すると婦人は「代筆をしてほしい」と言った。
疑問に思ったけど、すぐに理由はわかった。その婦人は盲目の方だった。

代筆している間、たわいもない話をした。
無事に終え、僕が「信濃町を出た後は、東京を観光して帰るんですか」と聞くと、婦人は「いいえ。兵庫に帰ります」とポツリと言った。
「えっ」。当時の僕には理解ができなかった。
雨で足元は悪く、兵庫から東京までに何度も乗り継ぎしないといけない。
慣れていらっしゃたかもしれないけど、大変だったと思う。それでも婦人は、創価学会の記念日である「5月3日」を選んで来たのだ。
言葉は悪いけど、「池田先生にお手紙を出すためだけ」に。

以来、僕はその人のことが頭から離れなかった。
「どうしてそこまでできるのか」。学会への理解も信心も未熟だった当時の僕には、分からないことばかりだった。ご婦人がどんな思いで、その時学会本部に来ていたのか、深いことは分からない。

だが、その婦人の行動こそ、「信心の深さ」なのだと知った。
一見、側から見れば無駄に思えるようなことを、馬鹿にされようか、非難されようが貫いてきたのが創価学会だ

僕が思う信仰者の目指すところ

病人と貧乏の集まりと言われた時代。
「あの人は救えない」「何を言っても変わりっこない」。そんな社会的弱者と言われる人に寄り添い、心からの励ましを送ってきた学会。世論が、周囲が、どうこうじゃない。「この世から悲惨をなくしたい」「周りの人を幸福の道に導いて、自分も幸せになりたい」ーー愚直に、ただただ目の前の人に尽くしてきた創価の師匠がいて、先輩たちがいたからこそ、今の創価学会がある。問われるのは、自分の信念を貫き通す覚悟があるか、どうかだと思う。

学会に入ってても、良いこともあれば、もちろん悪いこともある。
「信心してるのに、なんで?」と思う時もある。
でも信仰の本質は、物事の捉え方、見方を広げて、ポジティブに思えるようにしていこうねということだと思う。

例えとして相応しいか分からないけど、匂いに敏感な僕にとって、動物園に行くのは気がひける。でも子どもとか、動物好きの人はすごく楽しめる場所だというのは理解できる。
何の差があるかというと、僕は「動物特有の匂い」というネガティブな方に目を向け、子どもとか動物好きの人は「可愛い」とか「癒される」とかポジティブな方に目を向ける。何か一つを見た時に、ネガティブにとらえる人、ポジティブに捉える人の両者がいる。信仰は、そのポジティブな思考になれるように、自分を磨いていくことに価値があると僕は思う。だって、どんなことがあっても前向きに捉えられたら、人生は豊かになるし、面白い。

ただ、その心を養うのが大変なのよって話。
うん、やっぱり整理できなかった。
ま、いっか。

僕の中にあった孤独感【創価学会3世のブログ#5】はこちら


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