「きっと意味がある」ーーこの言葉が大嫌いだった僕【創価学会3世のブログ#1】

母の口癖

「きっと意味がある」「仏法に無駄はないんだよ」
創価学会員は、よくこんな言葉を口にする。
僕の両親、特に母の口癖でもあった。幼い頃は、気にも留めなかった。
でも次第に、僕はこの言葉が嫌いになった。

両親は、共に学会2世だ。
父は仕事が遅くても、座談会や本部幹部会(中継行事)には必ず参加していた。母は学会のリーダーをしていた(今も)。
小学校に入る前の僕は、学会の会合にたびたび連れて行かれた。
当時は、学会の印象は良かった。優しい人ばかりだし、会合に行けば、何かしらのお菓子をもらえた。
(きっとみなさんも経験のあることではないでしょうか)

でも小学校に入り、友人と遊ぶことが楽しくなった。少年野球も始めた。
学会よりも、友人や野球を優先するようになった。
そんな中、少年野球で願ったポジションで試合に出れなかった時や友人との関係がギクシャクした時など、母は決まって「きっと意味がある」と僕に言った。悔しさやもどかしさは、その言葉に幾分か救われたこともある。

だが、年を重ねるに連れて、いろいろな情報を耳にした。
良いことも、悪いことも。もちろん、学会のネガティブな話も。

宗教は弱い人間がするものーー僕の両親は弱い人間だ。自分では何もできないから宗教やってるんだと決めつけるようになった。
中学に入った頃から、両親に相談をしなくなった。

「うるせえ!クソが!」
物事がうまくいかない時、僕の怒りの矛先は母に向かった。今思えば、自分の未熟さ、力不足を認めたくなかったのかもしれない。それでも母は昔と変わらず僕に言ってくる。「きっと意味があるから」。小さかった僕から、容姿も性格も変わっているのに、母は変わらない。それが腹立たしかった。

知らなかった姿

高校3年の時、僕は大学受験に失敗した。ある意味、初めての挫折だった(振り返るとそんなに大したことではなかったんですが笑)。
その時も母は言った。「絶対に意味があるから・・・」
当時の僕は、感情を制御できなかった。

「どんな意味があるんだよ。言ってみろよ。
結果は変わらねえんだよ。変な慰めなんかすんなよ」
母は困った顔をしていた。

紆余曲折あり、僕は創価大学に入学した。
そして20歳も目前にした時、両親と同じように学会活動をするようになった。〈なぜ発心したのかは別の機会に〉
大学の休暇中、実家の仏壇の前に座り、唱題をしていた時、ふと母のご祈念帳を目にした。少し覗いてみると、そこに書かれていたのは、大半が姉や僕に関することだった。

「◯◯(僕)が創価大学に行きますように」
「創価大学でいい友人、先輩、後輩に巡り会えますように」

今まで知らなかった母の姿を見たような思いがした。
僕が寝ている頃、学校に行っている頃、遊んでいる頃、母はずっと祈り続けてくれていたんだと知った。僕は過去の自分を猛省した。今の僕があることに、感謝があふれた。

価値を創造していく

大学時代、母を通して「きっと意味がある」「仏法に無駄はない」との言葉の意味を模索し続けた。それは今でも続いている。
だが、僕の中で一つの答えが見つかった。
それは、困難や壁にぶつかっている相手が、「きっと意味がある」と思えるまで、寄り添い続ける覚悟と行動が詰まっているということ。
母もそうだったのかもしれない。大学受験に失敗した僕が、創価大学に進学した価値を創造できるまで祈り、励まし、寄り添い続ける。母には、今世では、到底勝てそうにないと思う(もちろん父にも笑)。

僕が関わっている男子部のメンバーにも同じようなことを言っている。
でも気をつけていることもある。「きっと意味があるから」ではなく「絶対に意味あるものに一緒にしていこう」と相手に伝え、自分にも言い聞かせてる。

価値を創造するまで足掻き続ける。そのための仏法だと思っています。

駄文をここまで読んでくださり、
ありがとうございました。

師匠に一度も会ったことがない僕の師弟観【創価学会3世のブログ#2】はこちら

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