帯の商社に就職して いくつもの初めてに出会った。 配属されたのは倉庫というべきところ。 そこには当然だが、数多くの着物や帯が大事に保管されていた。 まず、その種類の多さに戸惑った。 いまはすっかり忘れたが袋帯、名古屋帯、八寸、五寸、角帯・・、 とにかくそれらを覚え、営業の指示で引っ張りだし、店に届ける。 その流れの中で着物・反物の扱い方ができるように ならなければならなかった。 反物を巻くだけでも慣れが必要であった。 そんな珍しい体験は面白かったが3か月後には迷い始めていた。
私は疲れ果てていた。 就職の希望はマスコミ関係だった。 もう半世紀以上前の話である。 いろんな手を使って放送局や新聞社の入社試験を受けた。 たったひとつ、地方の新聞社の試験に合格した。 でも、どうしても納得がいかなかった。 地方の新聞社でさらに地方の駐在記者などになったとしたら。 私はその生活が見えなかった。 で、4回生の秋、それを断った。 以後、私に幸運は訪れなかった。 同時に、大学の封鎖が始まった。 私はその封鎖の中へ出入りをするようになった。 一方で野心を尖らせた。 と
何台目のパソコンになるのだろう。 1995年からいろんなパソコンを使ってきたが、最新とはいえない家パソコンが 立ち上がるけど、すぐにダウン。 しょうがないので、事務所のちょっと古いパソコンを使う。 これはハードが残り少ないんだよな。 大掃除して、がんばってみるか
いきなり、哀しい話から始めることになりました。 年末来、学生時代に親友としてつきあっていたBの行方を探していました。 平成22年に手紙をもらって、返事をせずにいたところ、 いつか電話やメールが繋がらなくなって・・・、 そのままにしていたのですが。 今年の初めに実家に電話しても繋がらなくて、少し不安な気持ちでした。 やっと,先日、実家に繋がって消息を聞きました。 Bの妹と言う人が出てきて、Bは平成23年6月に亡くなったと。 あの手紙が最後の手紙だったのだよ。