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藤原信経の不運

今週はオリンピックにより放送休止。
前回もだったけど、8ヵ月も続けて来た習慣(視聴)なのに1週空いてもそんなに違和感がないのって…いや深く考えないようにしよう。。

今日は書いたまま放置していた記事(のひとつ)をここでお焚き上げ。


萩谷 朴著「紫式部の蛇足 貫之の勇み足」に気になる箇所が。

紫式部が「紫式部日記」に清少納言について辛辣に書いてるのは清少納言が「枕草子」で夫を小馬鹿にした腹いせ、はよく聞く説だけど、他にも理由があった…かも⚫︎ ⚫︎しれない?
今回の話は、ちょっとねじれてて面白い。
もちろん本当の理由はわからない。
夫の件も今回の件も無関係かもしれない。
でもそこに間接的にだけど行成が関係してる(かもしれない)以上はここで書かないわけにはいかないのである…w

「枕草子」第九十八段 雨のうちはへふる比(後半部分)

(原文)
つくも所の別当する比、たがもとにやりたりけるにかあらむ、物のゑやうやるとて、これがやうにつかうまつるべしとかきたる、まんなのやう、もじの、よにしらずあやしきを見つけて、これがまゝにつかうまつらば、ことやうにこそあるべけれとて、殿上にやりたれば、人々とりて見て、みじうわらひけるに、おほきにはらだちてこそ、にくみしか。

(現代語訳その1)「枕草子解環二」(萩谷 朴)
(その信経が)作物所の別当を勤めている頃、誰のところへ送った手紙であろうか、何かの絵図面を届けるというので、
信経「こんな風に作ってさし上げなさい」
と書いてある、漢字の書風や、字体が、何とも言えぬ下手糞なのを見つけて(そのわきに)、
清少「この指図通りにお作りしたら、変てこなものになるでしょうよ」
と書きつけて、殿上の間へ届けたので、みんなが手に取って見て、ひどく笑ったらしいのを、(信経は)大変腹を立てて、(私のことを)憎んだことです。

(現代語訳その2)「桃尻語訳 枕草子」(橋本 治)
作物所の別当やってる頃、誰のとこに送ったのか知んないけど、物の絵図面送るっていうんで、「この様に致すべきだ」って書いてある漢字のカッコ–––字がこの世のものとも思えない下手さなのを見つけてね、「この通りに致したら、ヘンなもんにしかなんないよォ」ってさ、殿上の間に届けたらばさ、みんなが取って見て、メッチャクチャ笑ったのにかなり腹立てて、ホントにもう、嫌ってたんだァ。

作物所つくもどころ 禁中の調度品を調製する所。別当はその長官。

引用したのは第九十八段の後半部分で、前半は藤原信経が勅使として中宮の元に参上した時(萩谷先生の推測では長徳3年7月頃)の清少納言とのシャレの応酬の様子が書かれていて、最後に「そういえばこんなこともあったっけ」的に付け足しされたのが引用部分。
つまり時系列的にはこの後半の方が前(先)に起こった出来事であり、信経が蔵人兵部丞兼作物所別当だった長徳2年5月(28歳)から長徳3年7月頃の間のことと思われるが、萩谷先生はさらに時期を絞り込む。

恐らく、長徳2年12月16日ご誕生の脩子内親王の三・五・七夜の産養や、五十日・百日の儀等の御前の調度を作るために、信経が度々明順※の小二条宅にあった中宮御所へ、絵図面を持参して、指示を仰ぐ必要のあった時という条件を加えると、長徳2年12月16日以後長徳3年3月27日(百日の儀)以前に、更に限定することができよう。
※明順:中宮定子の御在所はこの頃、叔父高階明順邸(小二条第)

「枕草子解環二」(萩谷 朴)

さて。遅くなったけど、ここに登場する「信経」とは誰か?
彼は式部の父為時の兄為長の息子なので、式部にとってはいとこに当たる人物(さらに式部の異母妹と結婚しているので義弟でもある)。
省略した九十八段の前半のやり取りを見ても、なんとなく清少納言とは息が合わないというか彼女好みの人間ではない感じが伝わるのだけど、問題の後半。
信経は「恐らく文章生出身の六位蔵人であり、式部丞をも勤めて「信経記」という日記さえも残しているほどの知識人」であり、それなりに仕事の出来る人物ではあったはずなのに、悪筆というだけでここまで笑いものにするのはなぜだろう?
それは……

彼の前任者が行成だったから(!?)

  • 行成…長徳元年9月 従四位下蔵人頭備後権介にして作物所別当に(24歳)

  • 信経…長徳2年5月 六位蔵人兵部丞にして作物所別当に(28歳)

確かに前任者が優秀で完璧だと後を引き継いだ者は何かと比較されがち。
それにしても家柄や官位、年齢はともかく「筆蹟」を行成と比べて嗤うのはちょっと酷じゃないだろうか。
これが間にもう一人挟んでいればまた違っただろうけど、つい約半年前まであの行成の美麗な文字を見慣れていた少納言からすれば確かに「何コレ?プププwww」と言いたくなる気持ちもわからないでもない。

「同じ作物所の別当として、前任者が行成であったということが信経にとっては甚だしいハンディキャップとなったのであろう」(萩谷先生)

「甚だしいハンディキャップ」……w
行成のことだから筆蹟だけでなく、きっと業務自体もきっちりとこなしていたに違いない。
これが少納言と信経の最初の初対面だとしたらまさに最悪のスタート。
前半部分で一見親しげなやり取りの中に見え隠れするの信経の揚げ足取りやトゲある物言いはまだこのことを根に持っているのかもしれない。

そういえば、紫式部は行成に関しては不自然なほどスルーしている。
「紫式部日記」ではただ名前の羅列だけ、それも2箇所しか登場しない。
少なくとも今件においては行成は直接関係ない話で、これで紫式部が悪感情を持ったとしたら本当にとばっちりもいいとこなんだけど、まぁ…嫌いな人間の友達もやっぱり嫌うのが人情というものだから仕方がない。
「うた恋い」ではむしろ行成が紫式部にキツくあたる展開なのが面白い。
実資は紫式部を取次役としていたらしく小右記でもその存在がわかるけど、そういえば行成の方からも紫式部との接点は見えない。
絶対関わっていたはずなのに。
もっとも清少納言についても「権記」では言及がゼロだから記載の有無=接点の有無ではないのだけど。

それにしても蔵人にしても作物所別当にしても、大変な仕事だとは思っていたけど実際に絵図面を持って(この場合は)中宮御在所と内裏とを往復したりしてたんだな。
定子様自ら図面に赤を入れたり…なんてことがあったんだろうか。
そんな絵図面に添えられた文にダメ出しを書き込んで殿上人の笑いものにした清少納言、確かにちょっとイジワルではある。
まぁいたずらに近い感覚だったんだろうけど。
それを間に受けて怒る信経の方を大人気ないと思うのは清少納言贔屓が過ぎるだろうか(過ぎる)。
それでも信経はまだ当事者だから怒る権利はある。
でも直接関わっていない紫式部がもしこれを根に持ってああいう書きっぷりになったとしたらさすがにちょっと陰湿じゃないだろうかw

永井路子「日本史にみる女の愛と生き方」の一節を引用して終わろう。

といっても、私は彼女(紫式部)に百点満点を与えるのはどうも気がすすまない。さきにあげた清少納言への手きびしい悪口、そのはしたなさ、どうひいきめに見ても、いやな女である。(中略) それに、清少納言をけなす一方で、 「私なんかは、一の字さえも知らない顔をしているんですからね」とは、謙遜どころか、かえっていやみである。そんな女とつきあうよりは、清少納言のような、少しおっちょこちょいな人間とおしゃべりするほうが、ずっと気がらくかもしれない。

さて真実はいかに?



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