見出し画像

「強いヒロイン」のジレンマ 『ムーラン』アニメ&実写比較

とある事情で『ムーラン』実写版を観ねばならなくなったのだが、ちっちゃいパソコンのディスプレイで、4Kでもないのに、3000円も払わされることが耐え難かったので、少しでも元を取るためにnoteに感想を残すことにする。

アニメ版『ムーラン』はこう終わる。主人公のムーランは、フン族の侵略から見事皇帝の命を救う。その功績で、皇帝の側近になるように誘われる。彼女はそれを断り、故郷の家に戻る。戦いの中で出会った部隊長がムーランとの結婚を申し出る。ムーランは良い夫と幸せに暮らしました、めでたしめでたし。

男装して兵士になるヒロインの話なのに、この終わり方はあまりに反動的だろう、と非難するのは簡単だ。実写版はそこでムーランを皇帝の近衛兵にして終わる。いやそれどころではない。ナレーションによれば、彼女はどうやら伝説の英雄となるらしい(おそらくこれはムーランの原作である中国の伝承「花木蘭」を指している)。

実写版は、いわゆる「強いヒロイン」の誕生譚として『ムーラン』を作り変えた。血湧き肉躍る英雄譚として大いに楽しませてもらった(3000円は高いけど)。だが一方で、私なんかよりもっとリベラルな人が見たら、たぶん居心地悪いんだろうな、という部分が増えてもいる。以下、実写版の改変点を列挙しながら、その居心地の悪さを説明してみたい。そこに、「強いヒロイン」という理念が抱える本質的な難しさがあるように思うからだ。

ムーランのキャラクターの変化

スクリーンショット 2020-09-28 1.44.28

伝説の兵士になるラストから逆算すれば、アニメ版のムーランは主人公失格になろう。というのも彼女は、「女らしくあれ」という故郷の社会規範になじめないのと同じくらい、「男らしくあれ」という軍隊の規範にもなじめない人物として描かれている。彼女が軍に入る動機も、老いた父を戦場にやりたくない気持ちが(実写版に比較して)強い。アニメ版ムーランは、男女双方のジェンダーに違和感を感じつつ、自分の進むべき道を迷い探すキャラクターなのだ。

対して実写版のムーランはずっと「男らしい」キャラクターに改変されている。実写版にはアニメ版にない「気」という設定があり、要するにフォースみたいなもんらしいが、本来男性が使うべき技ということになっている。ところがムーランは幼少期から気を操り、騒ぎを起こして「女らしくない」と疎まれていた。そんな彼女は、兵士としての訓練中にもつい自分の気の力を見せつけたりする。ホモソーシャルな兵士の付き合いにも割と適応しており、乱暴な冗談を仲間と飛ばしあう描写もある。実写版のムーランは、社会からの抑圧を逃れ、男以上に男らしい自分の本質を解放していくキャラクターと言えるだろう(注)。

「女であること」の告白

画像1

もう一つ大きな変更点が、ムーランが女であることが仲間にバレる過程である。アニメ版では、ムーランが戦いの中で気を失い、介抱を受けたことで、女であることがバレる。一方実写版では、ムーランは「仲間に嘘をついている」ことに思い悩み、自ら女であることを明かす。

私は最初、実写版のムーランがなぜそんなに悩まないといけないのか、よくわからなかった。男同士のコミュニティに参加して楽しくやっているのだから、自分から波風立てなくてもよい。自分の「本当の性別」なんて、当座の戦いに関係ないんだから、どうでもいいじゃないか。もちろん仲間の側は気にするかもしれないが、気にする方がおかしいんだから、放っておけばよい。

そう思ったのだが、見進めていく内にわかったのは、ムーランがむしろ軍隊側の価値観や視点を内面化しているらしいということだった。作品の中で何度か、「忠義、勇気、真理」という三つの徳が強調される。出撃前、「真理」の重要性を将軍が説くと、ムーランは表情を曇らせる。「バレたらやべえ」ということかと思ったが、後から考えると間違っていた。ムーランはここで、将軍や仲間たちがもし自分の真実(性別)を知ったら、きっと怒るはずだ、だから自分も自分を許せない、と考えているのだ。生まれながらの戦士である実写版のムーランにとって、軍はそれだけ大事な場所なのだろう。そんなムーランを、軍は当初こそ追放するが、最終的には欠くべからざる戦友として受け入れる。

魔女との対比

画像2

実写版での最大の変更点は、新キャラクターの魔女だろう。遊牧民の侵略軍に協力する魔女は、ムーランと同じく気を操る。それゆえ社会から爪弾きにされ、流浪の生活を送ってきたらしい。本編中では彼女の目的は具体的にならないが、現在の中国の体制を打倒し、自分の生きやすい場所を手に入れようとしていることはわかる。

魔女はムーランの鏡像、「なるべきでない」もう一人のムーランである。ルークに対するダース・ベイダーだ。魔女はムーランに「お前は私と同じだ」と語り、協力して皇帝を倒そうと誘う。もちろん、ムーランは誘いを断る。「私の使命は帝国のために戦い、皇帝陛下を守ることだ」。

魔女との対比によって、アニメ版になかったテーマが入ってくる。革命か体制維持かというテーマである。抑圧的な社会秩序を転覆しようとする魔女に対し、あくまで現在の社会秩序の中で自分の居場所を見つけようとするムーラン。ムーランは自分の主張を実現し、最後に伝説の兵士となる。

これで本当にいいのか?

以上、実写版の主要な変更点を並べてみた。表面上アニメ版と似た話だが、『スターウォーズ』のような英雄譚、あるいは『機動戦士ガンダム』や『スターシップ・トゥルーパーズ』のような新兵ものとして、大きな路線変更がなされていることが伝わると思う。結果、「強いヒロイン」としてのムーランが生まれる。

その一方で、つまるところこれはムーランが伝統的な社会体制に組み込まれただけなのではないか、とも言える。忠・勇・真といういかにも説教くさい三文字が書かれた剣を振るうムーランを見ると、なんだかなあという気になる人もいると思う。

もちろん伝統社会の側も変化する。女性であり戦士であるムーランを最終的には受け入れる。それを象徴するように、忠・勇・真の剣はラストバトルで失われ、ムーランへの褒美として作り直される。だがそれにしても、単にムーランが強いから特例で受け入れただけの話じゃねえかと言えなくもない。おまけに新品には、親孝行を表す孝の文字が足されてるし。

だがここに居心地の悪さがあるとすればそれは、そもそも「強いヒロイン」が「男のように強いヒロイン」であるなら、ある程度宿命的な居心地の悪さなのだ。「一人前の男になる」とは、詰まるところ現在の社会を回す歯車になるということでしかない。あるいは、アウトローのダンディズムを気取り、秩序の破壊者になることでしかない。『スター・ウォーズ』はともかく、『ガンダム』も『スターシップ・トゥルーパーズ』も、まさしくそういう話だった。王子様とのめでたしめでたしから「強いヒロイン」を救い出せても、「強いヒロイン」が「男のように強いヒロイン」であるなら、今度は男性のジェンダーが抱える問題が、主人公を変えてそのまま再演されることになる。『ムーラン』は単に昔の中国社会が舞台だから、現在の日本人にとって相対化しやすく、やな感じがよりはっきりしているというだけの話だろう。

最初に書いた通り、私はマッチョな新兵ものや英雄譚は大好物だから、大変楽しませてもらった。だからここまで述べてきたことも映画の本質的な瑕疵とは思わない。むしろ、確かに存在する問題をあからさまにしているのだから、十分な意味がある。3000円分ではないにせよ。

注:もちろん、これは単純化を含む。戦いに恐れを抱く仲間をムーランが「恐れこそ勇気を育てる」と励ますシーンは、男らしさから降りるように(降りることで真の男らしさ?に辿り着けるように)勧めている、と言おうと思えば言える。何が男らしく何が女らしいかルールブックがあるわけでもないので、「言おうと思えば言える」余地はある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?