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台所の屍体

 さても問題はこの屍体である。こんなものが床に転がっていては夕飯の支度も儘ならない。いや暖気のんきに料理をしている場合でないことは重重承知しているのだが、どうしても眼の前の現実を受け容れることができない。
 わたしが殺したことに相違はない。そのこと自体、後悔はしていない。こんなやつは地球上に存在してはならないのだ。
 夕飯を作っていたときのことだ。背後に不穏な気配を感じて振り返ると、黒い影がいきなり飛び掛ってきた。声をあげる余裕もなく、無我夢中で応戦していたら気づいたときには足許に屍体があった。記憶が定かではないが、手にはフライパンを握り締めていたからきっとこれが兇器なのだろう。買い換えたばかりのちょっといいやつだったのに。わたしは汚れの附着した面をなるべく見ないようにして金属ごみの袋にそっと仕舞い込み、袋の口を縛って厳重に封をした。
 わたしは数日前にもこいつを目撃している。どこから入り込んだのか、風呂上がりのわたしを扉の陰から見つめていたのだ。悲鳴を聞いた夫が駆けつけてくる前にどこかへと逃げ去ってしまった。無防備なひとりのときを狙って姿を現すとはあまりにも卑劣ではないか。わたしがそう主張しても夫は曖昧に笑うばかりでまともに取り合ってくれなかったが、翌日には撃退用のスプレーを買ってきた。あれを使えばフライパンを無駄にすることはなかったのに、咄嗟のことだったので失念していた。
 間もなく夫が帰宅してしまう。まずは現実の問題と向き合わなければ。触れることはおろか、直視するのもおぞましいが、見て見ぬふりをしていても屍体が消えてなくなるわけではない。ようやく重い腰を上げたところで、
「どうしたの」
 いきなり背後から声を掛けられ、わたしは飛び上がらんばかりに愕いた。夫だった。もはや隠し立てはできない。わたしは腹を据え、事の顚末を涙ながらに語って聞かせた。
 話を聞いた夫は困惑したような表情をうかべて屍体に歩み寄り、しばしの間、無言で床を見下ろしていた。
「殺すつもりはなかったんだけど不可抗力で。いや殺意があったかと問われれば明確にあったような気もするし、それで殺したまではいいんだけどどうしよう、これ」
「捨てちゃえば」わたしの苦悩など意に介さぬ様子で夫はそう云い放ち、黒光りする屍体の触角を抓んでごみ箱に放り込んだ。

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