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近ごろ日本社会の影が濃くなってきた。

日本は「衰退する」「貧しくなる」と語られるようになって久しい。最近では実生活のなかで、日本人としての「貧しさ」を実感する事象も増えてきた。

それは、高騰し続ける都心の不動産が外国人に爆買いされているというニュースであったり、海外旅行が急激に贅沢品に変わってしまったことであったり…。

もっと身近な例でいえば、給料に対する社会保険料や税金の負担割合が増え、そこに物価の高騰が重なって、現役世代の多くが貧しくなっていること。

いわゆる団塊の世代以前と、それ以降に生まれた世代がもつ金融資産には大きな差がある。金融営業をしてきた私には、この世代間の格差は日々リアルに感じているものだ。(もちろん個人差はある)

そして最近では、街なかで「貧困」を目撃することが増えたような気がする。しかも、中高年の女性の貧困だ。先週末の朝、渋谷駅に向かって明治通りを歩いていると、白髪交じりの女性がひとり、うつむきながら恐るおそる、道端のゴミを漁っていた。人目を気にしながら、食べるものを探していたのだ。

都営バスのなかで遭遇した光景は今も忘れられない。私の目の前の優先席に、大きな袋を抱えた中高年の女性が座った。自分の荷物で2席分を占領していて、なんだか図々しいオバはんだなぁと思ったが、特に気に留めることもなくスマホに視線を戻した。

すると…

彼女はおもむろに、持っていた袋からペットボトルやプラスチックのカップを取り出し、いきなり次から次へと私の目の前で吸いつき始めたのだ!

私はいったい彼女が何をしているのか、
瞬時には理解できなかった。

そう…腹をすかせたその女性は、コンビニやファストフード店のゴミ箱からゴミ袋ごと盗んできて、客が捨てたドリンクのわずかな飲み残しを、舐めたりすすったりしていたのだ。

バスの優先席を占領し、目の前に立っている私の視線など、いっさい気にすることもなく…。

超絶ショックだった。

ホームレスの存在は、上京してから何度となく街なかで目にしてきた。でも、このような日本人女性たちのセンセーショナルな姿を間近で目撃する経験は、少なくとも私にはなかったと思う…。

貧困は「自己責任」「本人の努力が足りない」

ときに聞こえてくるこのような論調には、日本社会の不寛容さを実感させられる。まぁそれだけ、他人のことまで気にかける余裕などないという日本人が増えていることの裏返しなのかもしれないが…。

さて、彼女たちは本当に、怠惰で、
努力が足りなかったから貧困に陥ったのだろうか?

そうとは決して限らないと思う。

なにか一つでも条件や境遇が異なれば、
自分だってそうなっていた可能性は充分にある。

たまたま家族に恵まれた。たまたま就職できた。
たまたま五体満足、たまたま健康。

たまたま良い情報、
良い人脈にアクセスできる環境にいる。

今のところは…。

そう、たったそれだけの話だ。

貧困に陥った人は、たとえば上記のどこか一つで、たまたま躓いただけなのかもしれない。

たまたま一つ躓いてしまった人と、たまたま乗り越えられた人との間には、もはや本人の努力ではどうしようもないほどの格差が生じるのではないか…。

ちなみに私は医師から明確な診断をされたわけではないが、自身の注意力に何かしらの欠陥があることを疑っている。先日も新幹線の切符売場の窓口にiPhoneを置き忘れ、ホームに降りてから気がついた。そして、先週末も品川駅のエキュートで買い物に気をとられた結果、スーツケースを丸ごと置き忘れて、これまたホームに降りてから気がついた。

こればっかりは、
いくら気をつけていてもダメなのだ。

「今日こそは失敗しない!」…と、最初は自分に言い聞かせている。でも、ふと別の何か(会計や会話)に注意が移ると、途端に忘れてしまうのだ。

それから…極端に暗算が遅い(笑)

このように、障がい認定はされていなくても、本人の努力ではどうにもならない課題や生きづらさを抱えている人たちが、社会には一定の割合でいると聞いた。「境界知能」と呼ばれる人々もそうだ。

※私の場合は複数の荷物を持たないことでリスクを防ぎ、失くしても諦めるマインドで対応している。また、暗算は出来なくても現代社会では生きていける。

さて、明治通りでゴミを漁る女性に、私は1,000円札1枚でも差し出したほうが良かったのだろうか…。

同じ女性として、人前でゴミを漁ることの屈辱といったら想像を絶する。胸にチクチクと痛みを覚えながら、その場を通り越して渋谷駅に向かった。

果たしてどうすれば良かったのだろうか…?

たまたま恵まれていた自分には、社会に何かしらの形でお返しをする義務があると日頃から感じている。

それは少なくとも、道端の女性にお札を渡すことではないような気がした。それではまったく、格差を是正するための根本的な解決にはならないからだ。

社会のセーフティネットからこぼれ落ちてしまった人に救いの手が行き届くように、市民の1人として政治に参加すること、声を上げること。

そして、しっかり稼ぐこと。たくさん税金を納める立場になって、政治に対してその使いみちをきちんと監視し、意見すること。社会のセーフティネットを補完する仕組みを自らの手で創ること、または、そのような組織に寄付をすること…。

結局は、自分自身が豊かであってこそ、
社会に対して出来ることは増えるのだよな。

「自己責任」「努力が足りない」などと弱者を切り捨てて、自分たちだけ幸せを独占しようなんてムリ。社会はいろんな人たちで成り立っている。

たとえ「貧困」を社会の隅に追いやって、自分たちの安全を確保した気になったとしても、そのあさましさに対して弱者は突然に牙を剥いて襲いかかってくるものだ。

呼んでも応えない社会に失望した人々が、ある日突然、街のなかで無差別殺傷事件を起こすように。

はぁ…図らずもあまりに暗い内容になってしまったので、先日の鈴鹿サーキットでの写真を一枚w

明治通りでゴミを漁る女性に遭遇したその日に、ピカピカのマシンで趣味を謳歌し、家族や仲間と豊かな休日を過ごす人たちとサーキットで時間を共にした。

この歳でレースクイーンやるとは思わなかったなw

まさに社会の光と影が同居した一日だった。

彼らは運も良かったかもしれないが、若い頃から死ぬほど努力をしたのかもしれない。仕事を通じて、社会に価値を生んでいるし、自らリスクを取っている。

楽天で買ったペラッペラのコスチュームに身を包み、いろいろ考え込んでしまった一日だった(笑)

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