第10話 中崎町で見た夢。
精一杯でかい声で、
よく分からない動きをしながら。
一生懸命、
それはそれは一生懸命に
身体を振り絞って、全身全霊で、歌い上げる
声が
どんよりした空気の部屋の中に
ただただ、鳴り響いていた。
寂しい夜が 何度続いても 切ない朝を 何度迎えても
出かけよう
さあ 出かけよう
電光石火 お日様を迎えにゆこう (THE BLUE HEARTS /電光石火)
この声、この言葉、この音楽は、問答無用でポジティブなテンションを呼び寄せた。
効果は、歌を聞く度に、発生した。
だから、よく、この人たちの歌を、僕は聞いた。
よく分からない世の中というもの、生きるということに、
裸で訳も分からず
本人たちが何よりも大好きな音楽だけを使って、
ぶつかっていく
そんな風に感じられる様が、
自分の中に本当は備わっている、
何にも変えがたい、勇気を呼び起こした。
(出かけよう、って言葉、いいな。
そうそう。
部屋の中で縮こまっていたって、何も変わんない。
お日様を、迎えに行こうーーー)
2013年9月3日
夏の暑さは、続いていた。
そして、東京よりもジメジメしてもっと暑そうな、
熱気漂う、
でかい声で手を叩き体を揺らしながらゲラゲラ笑う人たちがたくさんいる、
一度憧れた、そしてまだ憧れが続いている、呼ばれた場所に向かうため
新横浜駅から発車する、新幹線に乗車したのだった。
目的地は・・・・
大阪・中崎町。
駅から徒歩1分で行ける距離にある、Y社の本社。
梅田〜心斎橋〜難波の、
物件を探し巡った7月の日々から、ちょうど2カ月ぶり。
(まさかこの展開が待っているとはなあ。)
中崎町がどういう場所なのか、立地を調べると
< レトロな古い町並みと隠れ家的なお店が混在する町 >
まとめサイトに書いてあった。
東京で言えば下北沢や吉祥寺に近い雰囲気だろうか。
東に行けば、よくテレビで見る、<大阪のおばちゃん>がたくさんいる「天神橋筋6丁目」があり
西に行けば関西最大の乗降客数を誇る街「梅田」。
小洒落たカフェやアートを飾るアトリエのような場所も多く、
好感の持てる地域だった。
本社ビルの改装に伴い、2階部分をリノベーションし、様々なテナントを誘致、ショールームにコミュニティスペースを加えた新たな会社の形を目指すとのことで、勉強カフェがそこの役員の方の目に留まり、招かれたのだった。
新大阪駅に到着し、毎度のこと、駅構内で最も大阪という土地に来たことを実感させることがある。
それは、聞こえてくる喋りのイントネーションだ。
当たり前だが、皆、関西弁をしゃべっている。
今まで、ダウンタウンなど、芸人が発する関西弁が当たり前だったので、
リアルに話す人が街中にたくさんいること、これが毎回、とてつもなく新鮮だった。(それは、大阪に住んでからもしばらく続いた)
Y社のビル前で、山村さんと落ち合い、中に入った。
Y社役員、吉田さんに実際に勉強カフェが入ることになるビル2階全体に加え、車に乗せてもらい、
中崎町周辺の街並みを案内いただいた。
ここがグランフロント、
ヘップファイブ、
阪急ビル・・・
とにかく、どこもかしこも活気があった。
ここに住んでいる人たちのエネルギーはすごい。
そのまま、JR大阪駅の「新梅田食堂街」がある高架下まで送ってもらい、実際にお会いしたのは1時間ほどであったが、話の進展に、好感触を得て吉田さんと別れた。
日帰りであったため、新大阪に戻り帰り際、山村さんと2人、大阪らしいものを食べて帰ろう、ということで新大阪駅の串カツ屋に入る。
現地での調査と面会を終えてホッと一息、生ビール中ジョッキで乾杯し、
大阪の珍しい串カツ・紅生姜などの関東にはなさそうなメニューに驚きながら、その日を終えた。
(こんな美味いもの、大阪にいっぱいあるのかよ。
やっぱり、大阪、いいなあ。)
大阪に来るたびに、新たな発見があり、
さらに憧れは強まるのだった。
2013年10月
今回のご縁、勉強カフェとY社を繋いでくれたのは、1号店を含め、勉強カフェの内装を多く手がけた実績のあるL社の社長であり建築士である田中社長の紹介であった。
今回のプロジェクトメンバーは、他に、
不動産鑑定士や海外の不動産系資格を保有し、メールのやりとり、その風貌からもバリバリのキャリアウーマン感のあった
A社の代表、荒川さん、そして同じくY社の2階部分へテナントを出店する予定であったW社の鈴木社長。
それぞれ、担当の範囲で実際の運営が始まることに備え、水面下でやりとりをしていたものの、
最もの主題はプロジェクトとしてY社が承認するかどうか、であった。
役員会議での承認がおりたとの返答がまだなく、店舗事業は一つでもどこかがノーを出せば
先に進まない。まして、プロジェクトとなると、より一層、コンセンサスが大切となる。
1ヶ月ほどは、Y社内の役員会承認待ちと言う状態であり、全員が、実体のない中で進めている状況であった。
(果たしてどうなるんだろうか・・・。
今回こそは、うまくいってほしい。
いや、うまくいくに違いない。
今はそのために、やるべきことをやって、信じて待とう。)
2013年10月11日
A社の荒川さんから、22時19分に、メールが届いた。
「本日のY社役員会で、本社有効活用プロジェクト第一弾(勉強カフェ)について、大筋承認がとれました!
つきましては、来週早々にでもミーティングを設定させていただきたいのですが、ご都合いかがでしょうか?
場所は恵比寿を予定しております。(原文ママ)」
待ちに待った、Y社内でのコンセンサス確定、という連絡。
(っっっシャァああぁぁあああああッッッッ!!!!)
心の中で、超本気のガッツポーズをした。
ついに、夢がひとつ、現実になろうとして進んでるんだよ。
「荒川様
お世話になっております。
ブックマークスの荒井です。
承認がとれたとのことで、ご連絡ありがとうございます。
初の西日本での勉強カフェオープンに向けて、全力を尽くします。
改めて宜しくお願いいたします。
ミーティングの日程ですが、
15~18日のあいだは、全て午前中であれば、可能です。
調整を宜しくお願いいたします。」(原文ママ)
すぐにメールを返信し、調整を行なった。
3日後、全員に対して荒川さんより以下のメールが届く。
「各位
18日金曜日10時にて、YGP(恵比寿ガーデンプレイス)集合にておねがいいたします。
今後、実際に進めるにあたっては、各種契約内容は個別にきちんと詰めるべきだと思います。
吉田さんともご相談したのですが、まずは、Y役員会議のフィードバックも踏まえ全体感を共有してから、
個々の詳細を各自メール等で詰めさせていただきます。
私が現在考える検討すべき事項としては下記ですが、
これらを含め、またこれ以外にも各当事者の確認したい事項がありましたら、些細なことも含めどうぞお知らせ下さい。
■L社
見積価格についてY社価格のとりなおしをどうするのか:Y社担当者をつける?
L社との契約内容検討:内容(工事金額が変更となるならそこと監理料の関係、実施設計、発注先選定 等のプロセス)
■勉強カフェ
先日勉強カフェからいただいた契約書(案)をもとに、Y社版に改定
賃料:定期借家契約でやる?敷金、フリーレント条件等の詳細調整。
改装費用上乗せ契約として、当初の定期借家契約終了後の賃料等をどうするか。
創業融資を受けるのであれば、その申請スケジュールも踏まえたOpening設定にすべきではないか。
どうぞよろしくお願い致します。」(原文ママ)
ついに、日程まで話が進み、ミーティングが開かれることになった。
そして、実際の契約についての詳細を詰めるステップにもなり、
本当に進んでいるんだ、と高揚感に満ちていた。
大阪に勉強カフェが誕生する日が、来るかもしれない。
2013年10月18日
万全の準備をして、当日の朝を迎えた・・・はずだった。
が、問題が起きた。
なんと、この日、iPhoneの不調なのか、神のいたずらなのかは
わからないが、目覚ましがならなかったのである。
起きた瞬間、血の気が引くのがわかった。
しかし、天は僕の運を試したのだろうか。
「5分以内」に、準備して家を出ればなんとか間に合う時間だった。
もう、何が何だかよくわからないまま、
ワイシャツを着ながらひげを剃り、寝起きの低血圧のまま、爆速で駅に向かうのだった。
一つ運が良かったとすれば、横浜に来る前は、
恵比寿、しかも集合場所であるYGP(恵比寿ガーデンプレイス)から近くに住んでいて、
気分転換にガーデンプレイスのベンチで休憩したり、どんな会社や店舗が入っているのか、ビルの中をたまに探検していたりしたので、場所に迷うことがなく、そのまま直行できたことだ。
こういう時、いつも神様はトラブルを与える。
きっと、慌てふためく人間の無力さを見て、空の上でからかうのを楽しんでるんだろう。
・・・恵比寿駅に到着し、見慣れた改札をおり、ガーデンプレイス方面へ駆け足で向かった。
無事、間に合った。
今回のプロジェクトのメンバーである
山村さん、L社の田中社長、W社の鈴木社長、A社の荒川さんが
そこに集っていた。
まだ到着していないのは、Y社の役員、吉田さんだけだ。
あとは、会議が始まるだけの状況であった。
5分ほど遅れて、Y社の吉田さんが、ついに到着した。
・・・・来るなり、神妙な面持ちを備え、何かあったのだろうか、と探る間も無く
開口一番。
「・・・。
申し訳ありませんが。
今回の話は、すべて無くなりました。」
(え?)
そこにいるメンバー全員、僕と同じようにポカーンとしていた。
そのあとは、なんて言っただろう。
もう、覚えていない。
とにかく、今回の勉強カフェ大阪オープンの、限りなく実現味を帯びた話が、今日この瞬間をもって終了した、それだけわかった。
後から聞いたところによると、プロジェクトの動向は、社内で承認がおりたが、他の役員の方から、再審査を迫る要求があり、ビル自体を移転及び建て替える可能性があり、このタイミングでリノベーションするのが、本当に長期投資としてパフォーマンスが見込めるのか、
という判断があったとのこと。
まるで、眠りが浅いときの短い夢を見ていたようだった。
が、またもや・・・
それは夢ではなく、現実であった。
2時間程度予定されていたミーティングは、あっけなく3分で終了した。
Y社の役員の吉田さんの心情も、告げなければいけない事実に、相当苦慮されたんだろうな、
と振り返ることが今になってできる。
だから遅れてきたのかもしれない。
もしかしたら、社内コンセンサスがおりてないまま、こっちの期待感もあって、なんとか通そうと、
ほぼほぼの意向が決まった段階で、こちらのテンションを下げないように配慮して方向性を固め、少し強引に進めた部分があったのかもしれない。
今では気持ちがわかる。
期待されている分、いろんな事を背負って、何事もなかったかのように、この日のミーティングが始まる事を目指して、動いてくれていたんだろう。
放心状態で、山村さんと2人、近くのカフェに入った。
山村さんの方も落胆していたに違いなかったけど、
さすがは百戦錬磨。
<よくある事>の一環のように見えた。
それは山村さんだけでなく、鈴木社長、荒川さん、田中社長などほかの社長たちも同じだった。
今回の件に関して、深掘りしたり後味悪くすることもなく、
一つの案件がただ終わっただけかのように(事実そうなのだろう)、一切のネガティブなワードを発することなく、
切り替え、すぐに次の場所に向かっていた。
(これが、店舗を立ち上げるってことか。)
僕は、経験をもって学んだ。
つまり、最後まで気を配って物事を進め、
どこか一つでも欠ければ前には進まない。
(だから、今ある店舗も、それら全部の条件をクリアしてオープンしていると思うと、すごいことだ。)
カフェの席に座るなり、山村さんが言った。
「いやー、残念だったね。
こういうこともあるんだよ。
いい勉強になったでしょ?」
「・・・はい、なかなか現実は思うようにいかないものですねー。
今回の話はダメでしたが、まだ諦めずに可能性を探ってみようと思います。
もとはと言えば、この話はなかったわけですし。
とにかく、お金を貯めて、自分の力でオープンまで持って行くしかない、と、より強く思いました。
今から節約して、何年かかかるかもしれませんが、めげずにオープンを目指していこうと思います。」
「そうだね。
まあ、節約もいいけど、それより稼ぐ力をつけたほうがいいと思うよ。
今ならネットを使って稼ぐ手段もあるし、
アフィリエイトやるとか。
色々試してみるのもいいんじゃないかな。」
その言葉を聞いて、確かにその通りだと思った。
「そうですね。何かしら資金調達のための副業をして、節約だけでなく、
稼ぐスピードを上げる方向で頑張っていきます。」
新たな日々に突入した。
<拾う神あり>と思えた、最後のチャンスがなくなった。
これでもう、正真正銘、あとは自力でやるしかない。
一切の近道はないのだ。
自分は、大阪に行けそうで、行けない運命なのか。
そんなことを、誰かに聞いたって、知っている人なんていない。
ならば切り替えて、地道に実現を目指すのみ。
(資金を貯めよう。
そのために無茶苦茶、勉強しよう。
こういう話があるだけ、何もないよりもものすごくありがたいんだ。
まず、稼ぐ力をつけよう。どんな状況でも、生きていけるスキルを備えよう。
アホじゃダメなんだ。賢くないとダメだ。
興味を絞らず、あらゆる知識をつけよう。)
30歳までに成し遂げたいことの、計画を立てた。
当時、26歳。
残り、3年と半年。
勉強カフェを運営しているから、というわけではないが、
人が歩むキャリアについて、
20代でどれだけ負荷をかけ、成長のために追い込んでやれたか、が30代以降の人生に大きく影響する、ということを見聞きしていて、
残りの3年と半年の過ごし方は、相当重要だと捉えていた。
小学校・中学校の頃の、ゲーマー時代に発見したこと。
クラスメートの中でそういう人をほとんど見たことがないが、ドラゴンクエストやファイナルファンタジー、皆に馴染みがあるポケモン、などのRPG(ロールプレイングゲーム)における、<レベル上げ>が、ものすごく好きだった。
最初は、強くて倒せないボスたち。
しかし、ザコモンスターを倒し続けてレベルを極限にまで高めた勇者になると、余裕で勝利できる。
これがたまらなく、好きだった。
数日前では、すぐに全滅させられていた、勇者パーティ。
しかし、鍛え抜かれた状態の勇者で立ち向かうと、
まるでプロ野球選手が子供の野球を相手するかのように、圧倒的実力差をもって、
ドラゴンボールに出てくるラディッツが地球人を初めてスカウターで計測した時に放ったセリフ
「戦闘力…たったの5か…ゴミめ…」
ばりに勝利できる。
その時の高揚感たるや、何にも代え難いものであり、面白すぎた。
レベル上げが嫌い、という人には信じられないかもしれないが、
当時の小学生の自分は、<早く家に帰ってレベル上げがしたい>と授業中にずっと思っていて、
実際、学校が終わった瞬間にどこにもよらず、友達とも遊ばず、
家に一直線で向かい到着するなりスーパーファミコンの電源を入れ、
その時にはまっているRPGの<レベル上げ>を夕食の時間がきてもハマりすぎてやめたくないくらいやっていた。
だから、あの時の感覚を思い出し、今から自分というキャラクターのレベル上げだ。
30歳になるまでの残りの3年半は、刹那的な享楽は捨て、将来に実りえる種を植え、育てよう。
そう決意した。
稼ぐためにアフィリエイトをやるにせよ、IT全般の知識もなく、とにかく勉強が必要だった。
当たり前だが、勉強カフェをやりながら、勉強する人たちを毎日見ているので、大人になっても勉強するのは当たり前、
そういう感覚にもなっていた。
早速、本屋に行っては、<世の中で必要とされるスキル>をピックアップし、
IT、政治、歴史、経営、財務会計、コミュニケーション、経済学、言語、地政学・・・
など、ひたすらにオールマイティに勉強をする計画を立てたのだった。
染み付いた夜の飲み会、深夜帰り生活のおかげと言ってはなんだが、
勤務が終わった後の23時半からでも、眠くなることもなく、夜行性の癖みたいなもので、すんなり勉強に取り組むことができた。
勉強場所に設定したのは、勉強カフェ横浜関内スタジオから、愛用の原付バイクで5分程度でいける、みなとみらいのStarbuck。
併設のTSUTAYAにある書籍も持ち込めることに加え、
深夜2時まで営業していたので、ものすごく重宝した。
閉店近くになるまで勉強し、帰り道の黄金町にある24時間営業のオリジン弁当で、
290円の「のり弁」を+30円でご飯大盛りにして買う。
家に帰って2時半頃夜ご飯を食べる。
こういう日々だった。
しかし、勉強をして頭を使ったからか、
腹が減ってるからか、どんなご馳走より、そののり弁は、それはそれはうまかった。
(白身魚フライにタルタルソースが絡み、ちくわの磯辺揚げに醤油をかけると、下にある鰹節・ごま昆布ご飯に染み込んで、ハーモニーを奏でる。
頑張って腹が減った後の、のり弁、世界一と言っていいほどうますぎだろ)
320円で買える、最高の幸せだった。
そして風呂に入って、ベッドに倒れこみ、3時半ぐらいには寝ていたと思う。
家から近かったので、横浜関内スタジオの10時オープンであれば、9時前に起きれば5時間ちょっとは寝ることができた。
通っていた馬車道のフィットネスクラブ・ゴールドジムも、鍛える意味が感じられなくなってしまい退会し、
勉強、勉強、そして、勉強。
・・・この日々にたどり着けてよかった。
必要なステップだった、と、振り返って思う。
本気で大阪に行けると思っていた。
おそらく、大阪に行ってからは、店舗業務に追われ、
会計・財務やITのことなど、あらゆることを勉強する時間など簡単に取れないだろう。
(実際、起業してからは緊急かつ重要案件ばかりに翻弄され、インプットの時間はなくなる。)
また、この時点での計画として、軌道に乗るまでの1年くらいは、それが戦略として良いのかはさておき、
店舗オープン・クローズのシフトを、誰も雇わず、すべて1人で埋めようと考えていた。
よって、時間のあるうちに、勉強をたっぷりしておくことはとてつもなく大切である、と結論づけていた。
だから、上述のITツールの使いこなし方や、経営、会計などに関する知識拡充がこの期間にできた。
そして、起業したい!と思って、スムーズに起業した人より、
この期間で「いかに起業が厳しいことなのか」という世界観も養われた。
例えば、サイバーエージェントの藤田社長やヘアーサロン・EARTHの國分社長などの自伝にこう書かれていた。
会社が始まってしばらくすると、私は週に110時間労働を目標に掲げ、日高にもそれを伝えました。週110時間ということは、9時に出社するだろ、そして深夜2時まで仕事する。それを平日5日間。あとは土日に12時間ずつ働くと110時間だ。と私。・・・はじめたばかりの会社は取引もまだ少なく、はっきり言って、意外とやることが無くて暇なのです。ところが長時間はたらくことが決まっているので、あまった時間に顧客見込みリストを作成したり、新規事業プランコンテストを行ったり、苦手な技術や経理に関する勉強をすることになります。それらをすべてこなしているうちに、業績が伸び、新規事業が生まれ、やがて時間を決めなくても本当に忙しくなっていったのです。(渋谷で働く社長の告白/藤田晋著)
3年間は、1日も休みなく働きなさい。 10時から8時までの通常の勤務時間は、誰でも頑張る。差が出るのが、その前の朝2時間とその後の4時間である。 普通の人の基準が週休二日、8時間労働だとしたらその基準で働いていると普通の結果しか生まれない。(地道力/國分利治著)
僕はこれを信じた。
半端じゃない能力がある人がこれだけやっているのであれば、実力のない自分が休むなんて選択肢はなくなる。
全てを、価値提供、成長するために時間を費やす以外にないと確信することができた。
さらに、今でもよくみるが、この頃に何度も見た、
スティーブ・ジョブズのかの有名な、ある日のスピーチ。
———CONNECTING THE DOTS.
you can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じることだ。何かを信じ続けることだ。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、そして私の人生に大きな違いをもたらした。(2005年 スタンフォード大学卒業式スピーチ)
今、取り組んでいること、やらなきゃいけないことについて、意味がないと一瞬思うかもしれない。その時は、ただの点にしか見えないかもしれない。
でも、それが線を形成し、身を助けることがある。
点と点は、ある日つながった。
2013年12月
大阪案件の終了を告げる、あのミーティングから3か月が経った頃、
勉強カフェ横浜関内スタジオは
オープニングからずっと続けてくれた
S沢さん、K野さんを中心に、
新しく入ったI田くん、F井さんも育ち、店内を盛り上げるのに、心強い有力なメンバーが揃っていた。
もう1人I川さんという、男性スタッフが入っていたが、抜けてしまい、
人員の補充でさらに一人必要な状態であった。
当時は勢いのあった、早稲田出身、東証マザーズに史上最年少で株式を公開した村上太一社長率いるリブセンスが生み出した、
成果報酬型求人サイト「ジョブセンス(現在はマッハバイトに改名)」に
勉強カフェ横浜関内スタジオへのアルバイト応募が掲載された。
成果報酬型での求人は当時は、この規模で展開しているところはなく、相当革新的であった。
すると、M谷さんという女の子から早速応募があったので、面接日を設定した。
当日、開始時刻の15分前に、リクルートスーツのようなきっちりした格好でその子は現れたのだった。
「・・・面接をお願いしていた、M谷です。
荒井さんはいらっしゃいますか。」
「どうも、お待ちしていました、M谷さんですね。
初めまして、僕が荒井です。
少し準備をするので、そちらの机にかけてお待ちください・・・」
面接会場は、関内駅すぐの、カフェ・ベローチェ。
座席は、外からあまり見えない、奥の方の席が空いていた。
話を聞いていくと、
1年ほど、カナダにいたらしい。
自力でアルバイトをたくさんこなして、貯めて行ったという。
しかも、共同生活らしい。
見かけによらず、根性あるな、というのが最初の印象だった。
「へえ〜。自分も、大学の時、
まさにカナダのバンクーバーや、マイナーですけどウィニペグというに少しだけいたんです。
カナダ、いいところですよね。」
留学の話で会話が弾み、
一通りの質問や志望動機などを終えると、自分の夢の話になった。
「実はですね、自分は大阪でこの勉強カフェをいつかつくりたいと思ってるんですよ。
これからもっと、大人が学ぶための場所は世の中に必要になるし、それは、今いる東京や横浜だけでなく、
大阪だって同じ。
自分で、もともと勉強カフェをやりたくて、メンバーに加わったんです。
だから、それを目指してやってます。
何年かかるかは、分からないですけどね。」
確証のない未来の話を、ただひたすら、まるでそれが叶う前提で話していた。
目の前にいる面接のために来たこの人が、夢の登場人物になり、
この日から1年もせず、憧れた大阪へ一緒に乗り込むことになるとは、
全く思いもせずに。
勉強カフェ大阪本町の歴史の始まりは、この日からだった。
そして、一緒に働くことになり、M谷さんがスタッフとして加入し、育ってきた2ヶ月後あたり、厚みを増した横浜関内スタジオの盛り上がりは、ここまでの3年で自分が担当した中では、最高の状態を迎える。
様々な会員様の中で、間をとりもち、
コミュニケーションのできる子達が揃っていた。
本当に助かった。
自分が休みの日は、他のスタジオからの社員を呼ばずとも、
M谷さん・K野さんでも、F井さん・I田くんでも、
S沢さん・K野さんでも、F井さん・M谷さんでも、あらゆるコンビネーションが運営を成立させたのだった。
彼ら、彼女らは各方面で、個性を発揮し、いまでは様々に活躍のステージを上げ、活躍している。
自分は前面に出ず、会員様も皆、スタッフに会いたくて来店されることも多くなった。
閉店後には、スタッフも混じって、「ラーメン会」と称して近くに皆で食べに行ったり、飲みに行くこともたまにあった。
そこで新たなつながりが生まれて、気づいたら、会員様同士でたくさんコミュニティが生まれるようになり、もはや自分の知らないところで、勉強のために集まったり、外に出かけたりと、自由に集まっていらした。
目指していた店舗は、まさにこの状態であった。
そして、スタジオ全体の雰囲気を会員様が、一緒に作ってくださっていた。
土日は開店前の、9時50分くらいから、朝から熱気のある会員様たちが一気に来店され、15席ある奥のラーニングルームがどんどん埋まる。
結果、高頻度で、ラーニングルームの「順番待ち」が発生していた。
開店直後のラッシュと挨拶で、
しばらくオープン作業も進まない、なんてことも良くあった。
僕の店舗のモットーは、「目の前の人が全て」であった。(この辺りは、M谷さんがとても共感してくれていた)
中には、
誰かに話したい、<ここ一番の話>を持って来る人がいる。
そこに対して、僕は全力でコミュニケーションしたい。
ながら作業でなんかいられない。
だから、オープン作業は途中のまま、ひたすら話し続けて2〜3時間が経つ、なんてことも良くあった。
(途中なのは良くないが、掃除やシステムの立ち上げなど、最低限のことは進めた。)
日中も席を増やさないと足りなくなり、
1日の会員様来店人数は、ちょっと前までが平均35名程度だったのが、
この時期を境に50人を超えるようになった。
席は、50席もなかったから、4席、机を買い足したりして対応した。
2014年3月
勉強カフェ横浜関内スタジオの発展とともに、
2012年4月に開始された、FCとは一線を画するコンセプトの、
各地方のオーナーの想いによって運営される「勉強カフェアライアンス」も進展し、大きく動いていた。
同年10月には、初の加盟店が誕生し、場所はなんと、沖縄。
「勉強カフェ那覇ラーニングスタジオ」がオープンし、
その後も立て続けに今度は、最北端、北海道の函館がオープンが決定した。
さらに続いて、ついに関西では初となる出店、場所は京都が決まったのであった。
大阪行きを希望していたこともあって、山村さんより、今回の京都のアライアンス加盟店の立ち上げサポート担当を任命された。
これもまた、願ってもない、ワクワクすることだった。
まず、店舗オープンが、横浜関内スタジオに続いて、また経験できる。
しかも今回は少し離れていれど、京都であり、関東と関西でどのように違いが出るのか、
大阪で自分がオープンするときの、大きな経験という資産になる。
さらに、営業時代の名残りかもしれないが、僕は出張が好きだった。
見たこともないような土地に行き、知らない人に会い、
初めての店に入ったり、文化に触れたりする。
山口県での製薬営業の時も、自ら担当を広範囲に設定して、訪問させてもらっていた。
萩市内まで車で行き、その後は船に乗り換えて、大きめの波に揺られながら人口800人程度の島に唯一ある診療所「大島診療所」に行ったり(そこそこ時間があるので、MRやMSさん/医薬品卸たちは、船内の畳で各社みんなで雑魚寝するのだが、その絵はなかなかシュールであった)
さらに東に進み、山を登りながら島根県の益田までいく途中の「むつみ診療所」に行ったり、「弥富診療センター」というところに行ったり。
はたまた、今度は萩より西の、長門をさらに西に超えて下関・豊北町にある「豊北病院」までも回ったりした。
この距離の移動と新しい地域への訪問自体は、遠いと思わず、むしろ僕は景色の移り変わりにおいて、かなり楽しめていたのである。
新天地を開拓する喜びは、何にも変えがたい。
それだけ毎日移動していたのとは打って変わって、
勉強カフェ横浜関内スタジオに来てからは、基本的に横浜にいて、何かあれば東京まで出るぐらいであった。
よって、大きな移動の出張というのは初である。だから、久しぶりであり懐かしくもある、仕事としての出張ということ、それ自体が、気分を高ぶらせた。
今回は、3泊4日で、「京都同志社前ラーニングスタジオ」のオープンまでをサポートすることになった。
京都という土地は、その製薬営業時代に実地研修で、
四条烏丸からすぐの東横インに1週間ほど滞在していたことがあって、
ちょうど真夏、祇園祭り真っ最中の時。
研修が終われば、同期と街を探索して、祇園祭りの雰囲気を堪能した。
碁盤の目に、綺麗に整えられた、京都市内。こんな綺麗に整っている場所は、群馬にも山口にも、東京にも横浜にもなかった。
食べたことのない、京都ラーメンという、ジャンル。
街並みの雰囲気を崩さないよう、色使いを調整された、各チェーン店舗たち。看板が茶色いローソン。
烏丸から、河原町や先斗町、鴨川の方まで巡り歩く。
この京都という土地でしか体験のできない、異世界のようで楽しかった。
ホテルの目の前を走る四条通りは、混雑のピークで、人、人、人、で
歩いて道を渡るのもやっと、というくらいの熱気に包まれている。
京都特有の湿度の高い気候と、真夏の太陽とともにその記憶が、焼き付いていた。
賑やかで、華やかで。
(またあの、京都にいける。)
・・・・勉強カフェ京都同志社前ラーニングスタジオのオープンが近づく頃、誕生日を迎えた僕は、27歳になっていた。
第11話へ続く。
===============================
作者 : 荒井浩介 株式会社ARIA代表取締役
Blog : https://kousukearai.work/
Twitter : https://twitter.com/kousukearai
Facebook : https://www.facebook.com/kosuke.arai
勉強カフェ大阪本町/大阪うめだ official WEB : http://benkyo-cafe-osaka.com/
※勉強カフェ®は株式会社ブックマークスの登録商標です。 勉強カフェ大阪本町/大阪うめだは、勉強カフェアライアンスのメンバーです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?