続・熱海紀行 2024

熱海にいる間中、失われつつあるものをなんとかできないかと思考ぐるぐるしてたと書いた。実は、両親が歳をとりそろそろ終活がなんだと話題になったりしてて、熱海のことを考えてるつもりで、本当はそれをなんとかしようとしてたんじゃないかって思い当たった。それだけでなく、子供の頃近所に人が沢山いて子供会の盆踊りだとか、お祭りだとか、ソフトボールの集まりだとかたくさんあってなんだか賑やかだった街の景色も消えてしまった。祖父もだいぶ前になるけどあちらに行ってしまった。すでに過ぎ去ってしまったものを、なんとか取り戻せないかと常日頃からもがいている自分がいることを発見したりした。

帰りに熱海の土産を母が生前贈与だとか言ってなんだかんだと買ってくれた。その中にイカの塩辛があって、そういえば母の実家の魚屋で白い桶にたっぷり入ったイカの塩辛をプラスチックの容器に分けて店に並べる手伝いをしたのを思い出した。母に話してみると、あれは祖父の手作りなんだと教えてくれた。イカを捌いてワタを取ってるのはみせてもらったことがあったが、塩辛がまさか手作りだったとは。母は、「おじいちゃんが、塩だとか味の素だとか入れて味見しながら作ってたよ」、と教えてくれた。

熱海はもしかしたらエンタメの街としてまた賑わいを見せるかもしれないけど、それがダメでもオズヤスの映画の民宿と温泉でなんとかやっていくだろうし、って自分なりに納得したみたいに、何かの形で、社会や街や家族の次の30年の姿に納得できたら、また一つ楽になれるのかもしれない。

熱海は、私の内面の苦しみのメタファーなのだろう。もしそうだとすると、熱海にいる間だけでなく、熱海から帰った後、熱海に行く前からずーと何もかも、目の前の現実世界を切り取って、これをなんとかしなくちゃと思考が湧き上がる時、切り取った現実世界が自分の内面の苦しみのメタファーになっている可能性についても考えとかないといけない。現実が苦しみの原因なのではなくて、現実の方がメタファーだなんでなんだかシュールで面白い考えだ。

あれ?こんな話どっかで読んだことあるぞ。。。。村上春樹さんの「ダンスダンスダンス」だ。思い出したぞ、。あの物語には「僕」しか出てこない。正確には僕とその投影としての人物たちしかでてこない。強いていえば現実世界の人間としてリアリティがあるのはユミヨシさんくらいだ。他の登場人物も確かにリアルな世界の人間としてディーテイルが与えられているのだけど、ユミヨシさん以外の全ての登場人物が解決を待っている自分自身の投影にすぎない。だから、結局のところほとんど全て自分自身のモノローグだ。うーむ。、確かに、、世界とはそのようなものなのかもしれない。いやー結構面白いことに気づいたのかもしれないぞ。。。

そうだ、、メタファーとしての現実世界が今私に突きつけている問題は、私の居場所(ポスト)の問題だ。このメタファーが象徴する内面の問題は、私がどこから来た誰で、これから何をやって死んでいく人間なのか。これが今、解決を待っている自分の内面の問題だ。

追記
もしかしたら熱海が、現実の世界で寂れてるのが僕のせいかもしれないことはまた別の問題として置いておけばいいだろう。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?