自分だけの感じ方、捉え方、答えの出し方と、自分を見守る視線と帰る場所

小さい頃、自分としては当たり前だと思って自分の内面の感覚、”センス”で人前で話してしまい、よく変わり者扱いされた。自分が大事だと思うことはことごとく学校では問題にされないばかりか、「なんで”普通”にできないんだ!」と怒られることも多かった。これが普通じゃないなら普通ってなんだよ〜と思う。それでも、ドラえもんの出来杉くんみたいに学校の成績が抜きん出てよかったらそれなりに居場所もあったと思うのだが、そうではなかった。例えば、”普通に”教科書を読めなかった。”センスが良すぎ”て、教科書に書いてある文章の至る所で引っかかった。例えば「まるまるだからバツバツである」という教科書の文章で、まるまるがバツバツの理由になってないじゃないか?とかに引っかかってしまう。小さい頃は私はバカなんだと思っていたから、まるまるとバツバツが「理由」の関係になる論理を必死で探したりする。当然ながら、教科書の理解は全然進まない。でも大人になって、私の子供が同じようなことを言った時「教科書の文章でも間違っている時もあるんだよ」と教えてあげられた。

いつだったか忘れだが、広く世界を見渡すと、自分が問題だと思うことは、多くの場合すでに誰かがどこかで取り組んでいるという発見をした。この人類の長い歴史の中で、自分がオリジナルに見つけた問題というのはほとんど存在しない。非常に稀だが、自分のセンスがくり抜いたのと全く同じ問題に到達して、問題の解決をズバッと提示している本や先生を、見つけることもある。

だから、今回の私の問題も、自分オリジナルに解決するよりも、先生を探して教えてもらった方がいいだろうと思った。ここで私の頭をもたげたのが、また昭和時代の価値観だった。例えば、これまでやってきたことから離れる時にいつも怖さを感じた: 「根無草になっちゃうよ!」っていう言葉、「これまでお世話になった先生に申し訳ないだろ!」っていう言葉、それから、「俺のところでちゃんとできないならどこへ行ってもダメだ」: こういう言葉たちがどうしても頭に浮かんでしまう。

1人の先生にずっと付くのが良いという価値観に縛られているので、例えば、それまでついていた先生が「なんでできないんだ!バカヤロウ!」とかいっても、「私はドジで間抜けな亀です!」というあの伝説のドラマが頭に浮かぶ。星一徹が飛雄馬を痛ぶっても陰で一徹も痛みに耐え涙を堪えている、愛するゆえに厳しくするんだという、あのマンガを頭に描いてしまう。自分の自己評価は駄々下がりでも、歯を食いしばってついていくと言った風になる。

でも良く考えると、「なんでできないんだ!」と怒る人は、自分で疑問に到達しているが、反論できない相手を前に思い通りにいかない不満をぶちまけているだけで、自分で発した疑問を自分で深く掘り下げて答えを見つけようとはしていない。ある時どこかで聞いたが「人は教えるためのちゃんとしたトレーニングを受けないと、自分が教えられたようにしか教えることができない」のだそうだ。だから、そうなるのはある程度仕方ないのだ。

それでもそんな環境に留まろうとしてしまうのは、私が”先生”のポジションにある人間に、昭和時代のドラマやマンガにあるような守護的な役割や他にも色んなものをくっつけて期待してしまう内的な囚われを持っているからだ。至極当然のことだが、その”先生”は、初めから教えることにそこまで関心がないのかもしれないし、何より自分がスルーした箇所で蹴躓いてる生徒をどうしたらいいかわからないのかもしれない。誰かを教えるというのは考えてみると結構エネルギーと時間を使う面倒な作業だから、仕方がないのかもしれない。

世界は広く、私が捉えたのと同じ問題に到達した人が複数いるはずである: 得られた複数の答えは時の洗礼を受けて現代のどこかに生きているはずである: 現代になくても古典の中にあるはずである: 複数のラインから自分の問題を掘り下げるのは問題を多面的に捉えるに有効である、と私は再び考えてみる。これらの考えは私を囚われから解放してくれるだろうか?

答えは否だった。これだけではどうにもならないことに気づく。自分の問題を解決しようとする私は、これまでの居場所を離れて宙ぶらりんになる怖さを引き受けなければならない。私と私の居場所の関係は、あたかもパチンコ玉が盤面のくぎに連続的に当たる綱渡りのようだ。この綱渡りは、これからずっと私が一番下の穴に吸い込まれるまで続くのかもしれない。

このような先行きを考えると、どうしても恐怖を感じてしまう。まるで映画「八日目の蝉」みたいな荒んだ感じのイメージしか浮かばない。私は、キアヌリーブスの映画「ハートブルー」のように新しい冒険に1人で次々とチャレンジしていくような、そういう性格では本来ないのだろう。

問題を解決するために自分のセンスで進んでみると、いつも見慣れない荒野みたいなところに行きついてしまう。周りのみんなは、ライフラインが整備された場所で楽しそうにワイワイやっている。自分だけいつも荒地に迷い込んで、他の誰というより自分自身に冷たく「なにやってんの?だからダメなんだよ」と言われ、辛くなっているような気がする。でも、人がたくさんいる場所に戻っても、競争やらポリティックスやらマウンティングやら意地悪やらで、自分は生き残れないのは明らかだ。そして、荒野で1人、いつも見守ってくれる視線とか、帰る場所があればいいのにな、と思いだす。だったら元の居場所に止まればいいような気もするが、そうもいかない。問題を抱えてじっとしているわけにいかないから。

そうか、私が引きずり続けている囚われの背後には、この怖れがあったのだ。そうか、私は問題を解決したいだけでなく、自分を見守る視線と帰る場所、安心できる自分の居場所が欲しいのだ。この二つは本来的に両立しない。だから私はいつも自分に不安定感を感じ続けてきたのか。また自分に関する謎が解けた。



→あれ?本当に両立しないのかな?
これでいいやって思えたらどうだろう?失敗してダメだったとしても。。
「そうするしかなかったんでしょ?それでいいじゃん」
って自分に言ってあげられたらどうだろう。。

うーむ。。
ちょっとウルウルしちゃうくらい嬉しいかも。。


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