少林寺拳法と合気道無元塾 その4

中心帰納と自覚ワークに本質的なつながりがあるかもしれないと書いた。しかし本当にそうなのか、と考えると、むしろ自分の都合でそうあればいいのにな、と思っている、と言う要素が強いことに気づいた。実際、自覚のための俯瞰ユニットメインでは合気道の相手フラフラ現象は起こらなかった。いつも一緒に練習しているDさんに「なにやってんすか?全然ダメっすよ」とか言われてその日はずっと調子を取り戻せなかった。もっと意識は下、体全体に満遍なく広がった無元塾で言う、惣身(惣は総の意味)になる必要があるようだ。

確かにこの先、中心帰納と自覚ワークが本質的に同じであるといいなと思いそのように地面を掘ればそのようなものを掘り出すのかもしれない。でも、それは石の塊から何か彫刻を彫りだすのと一緒で、そのように彫ればそのようなものが出来上がると言うことにすぎない。もし、中心帰納と自覚ワークの二つが本来的に一緒にあるべきものならばこれはこれでクリエイティブな結果になるかもしれない、がそれは掘ってみなくてはわからないし、彫ってみたら本来的に一緒にあらなければならないものではないことがわかるかもしれない。

だから、そんなことよりも、私は、これと同じことを人間に対してもやっていることに気づいたことが重要だ。私は女性でも男性でも外見や年齢や社会的な立場などから、他人に何がしかこうであったらいいなと言うイメージをもち、そのような人だと思って接する傾向がある。私の思いが強ければその相手はそのような面を私にむけてくれたり、そのような人であるかのように接してくれるかもしれない。でもそれは相手にとっては大変な迷惑である。人間は、これから彫りだす創造物ではなく、私とは完全に独立した長い歴史を通じて、すでに形作られている。

これまで、相手のあり方に対し、それは違うんじゃないかと腹を立てたり、傷ついたり、時になぜと迫っていた私は、私の中にあるその人のイメージからするとそんなことを言ったりやったりするべきではないのではないか、と言いたかったわけで、相手からすれば、人生の今に至ってそんなことを言われても困ると考えるのはもっともだ。その人は、私がイメージするような面とそれ以外の面を合わせた多面体として存在していた人だっただろうからだ。

もし、。。。もしだ。。目の前にいる誰かが、私がふさわしいと思う場面で対応するふさわしい面を私に向けなかったとしても、さらにはその場面で無様だと感じる面が私に向いていたとしても、この世界に存在する別の存在のあり方として、私が相手を尊重できる道があるとしたらどんな状況だろう。この答えがそのまま私が許される方法になる。

それは私の内面に、相手の行為やあり方と同じものが、存在しておらず、もし存在していたとしてもそのような自分を厳しく罰していなかったり、そのような自分が露呈してしまうことを恐れていない、そんな場合だろう。

自分のためにもっと整理すべきだ。相手を罰する理由は、相手の行為やあり方と同じものが、私自身の内面に存在し、私が露呈することを恐れ、私が自分を罰しているからだ。

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