少林寺拳法と合気道無元塾 その1

私が少林寺拳法について語るならここから始めなければならない。私は高校を卒業したがどこの大学にも受からなかった浪人生だった。浪人生の私は一生懸命に勉強した。特に高校三年生の後半だったと思うが近くの街の予備校の英語の無料講習に参加したのがきっかけで、浪人生になってからもその予備校に毎日通っていた。ある受験勉強本で読んだ勉強法を参考に、一時間半を一コマとして集中する勉強法をその予備校の自習室で続けていた。毎日10時に予備校の自習室について一コマを始める。11:30には一コマ目が終わるわけだが12:00までは何か他のことをして過ごす。昼のお弁当を食べて夕ご飯まで2コマをこなす。18:00ごろ夕飯のお弁当を食べてもう一コマをやって21:00には予備校を出る、という規則正しい生活をしていた。他の予備校生はもっと長い時間勉強を続けられる奴もいて、僕ももう少しやらなきゃいけないんじゃないかと思うこともあり、どこかにもう一コマを加えたりするのだが、決まって次の日にいつもの4コマをこなせなくなることに気づいて、一日4コマのペースを保つことにしていた。

そんな予備校生活を結構深刻な感じでペースを守って過ごしていたつもりだったのだけど、なぜだかは忘れたが、夏休みに予備校で知り合った友達1人と高校時代からの友人で予備校でも一緒だった1人と私の実家でお泊まり会をすることになった。なんとなく”夜”に独特の魅力を感じる時代でもあり年代でもあった。高校時代からの友人がいつのタイミングだか車の免許を取って親の車を乗り回していて、その車で夜中に出かけた。今ならコンビニなんかに行ったのであろうが、その頃うちの近くにそんなものがあったのかも思い出せない。とにかく、高校の友人の車にのって出かけた。実家の近くの道路を走っている時、別の車が急加速かなんかして僕らの車の前に横付けした。深夜が過ぎて朝方だったのもあって車の通りはほとんどなかったからそんなことをができたのだと思う。ついでにその車から男が2人降りてきて、僕たちの車に近づき乗せろと言ったみたいだ。僕が座っていた後部座席に体の大きな男が座って足を大きく開いたとき、言いようのない恐怖を僕は感じて、滑稽なほど上下に何度も飛び上がるほどに震えた。

その後のことは恥ずかしくあまり意味のあることを書くことはできない。恥ずかしいほどに震えるのと、私自身がその男とその仲間に媚びる話題を振ったりして、時間が流れたのだと思う。いや、流れた。あちこち連れ回された後、お前たちは帰れと言われ、車を運転していた友達を置いて帰った。家に帰って、眠くて眠くて仕方なく寝た。朝起きて親に顛末を伝え警察がなんだという話になり、最終的に残された友達も帰って来た。何があったのかわからないけど警察署の前にあった高校の友人の車はボコボコになってた。その後、マル暴の刑事さんとその友人とは別に連れ回された道を回ったりした。

まあとにかくその時の自分の情けなさをなんとかしようと、合格した大学では格闘技をやろうと決めていた。そこで出会ったのが少林寺拳法だった。大学の四年間と大学院での五年間、その後仕事を始めてから数年間、少林寺拳法を続けた。なんと言っても私を魅了したのは、少林寺拳法の開祖の話だった。少林寺拳法は開祖の戦争の時の強烈な体験に影響されて創られている。

「どんな状況であっても、男の子にとっては今向かい合っている人間に裸一貫で負けない、と思えることが、実社会を生きる上で実はとても大事な自信の背景になっている」
「お前がどんなに正しいことをしたいと思っても実際にそれをやろうと思い、やろうとする力がなかったら、何の意味もないよな」
「わしがお前たちにどう思うかときいたのに、なんで答えるのに周りを見回す必要があるんだ?お前が正しいと思うならそう答えろ」
「わしのところに来てこいつのためになら死んでも構わないって友達が、まだ1人もできないのか」
「地球の裏側からボタンひとつで何十万人もの人間を殺せる爆弾が飛んでくるのに、俺の蹴りの方があいつより10cm高く上がるなんてくだらないこと言うな。」
「武術が尊ばれた切り捨て御免の侍の時代だって、武術ができることはそんなに大したことじゃなかったんだ。武術ができるって大名になった奴は1人もいないんだよ。」
「自分が正しいと思うことをやろうとするなら自分に力がなくてはいけない。それはゲンコツの力じゃないんだぞ。賢くて勇気があって行動力がなきゃダメだ」
「拷問されても、いうことを聞かないならそいつの方が強いのだ」
「わしは戦中に中国で育ててもらった。中国人の喧嘩の仕方を見てみろ。誰かがやられていたら見て見ないふりする奴はいない。男でも女でも喧嘩に首を突っ込んで、やられてる奴を見捨てる奴はいない」

私たちの住んでいる日本で、戦前と戦中を通して指導者層との間で交わされていたはずの社会契約が、多くの指導される側が気づく前に無惨にも破棄された現実を踏まえて、また同じことが起こったとしてもあのような悲劇にならないように、そのために必要な人間を育てるんだ、という思いが込められた言葉で開祖法話の本は埋め尽くされていた。

「わしは自分で考え行動できる狼の群れを作りたいんだ。」
「みーちゃんはーちゃんはいらないね。15人でもほんとに死んでもいいっていう仲間がいればいつでも今の体制をひっくり返せる(世の中の大勢などそんなものだ)。」

河南省嵩山少林寺にある羅漢練拳図が日本の少林寺拳法の原点である。武道を人と人とを信頼関係で繋ぐツールとして位置付けたのは開祖の発明ではないかと思う。なぜ武道が信頼関係を作るツールになるのか言葉で説明することはできない。やってみればわかるとしかいえない。開祖の頃の武道修行は「親の仇だと思ってかかってこい」というようなものだったそうだが、開祖は、羅漢練拳図を見てそのような新しい時代の武道の存在価値に直感的に気づかれたのだと思う。

「俺も強くなるから、お前も強くなれ」というのが少林寺拳法の練習の基本だ。だから、相手に技のコツを知られたくないという思いはこの教えに反し、お互いに協力することが基本になる。武道の技術を金で売り買いするやつは中国では軽蔑されるとも習った。地位や名誉のために使ってもならないと教えられた。

もう一つ、「誰がなんと言おうと武道の真剣勝負は相手を殺したほうが勝ちである(中国では武道の果し合いで負けた方が相手に毒をもって殺してしまうこともあるそうだ)。そんなものをこの時代にやる意味があるのか?」というのもあった。

戦後の日本の民主化の動きの中でこそ受け入れられるような発言もたくさんあるのだと思うが、開祖の言葉は、戦後生まれの若者を強烈に引き付け、少林寺の組織は急速に拡大したのだそうだ。私は、団塊ジュニア世代であったが、開祖の言葉には突き刺さるものがたくさんあった。

四国多度津にある少林寺拳法本部で、開祖に直接手をとって教えを受けた古参の先生に私は、「日本は中国と戦争をしてたんですよね?なんで開祖は中国の人に大切にされたんですか?」と質問したこともあった。古参の先生の答えは「毎日の生活を共にして、身近な人たちと苦労を共にしていたら、国と国の対立とは違う信頼関係で結ばれるんだ。」というような感じの答えだった。

それでも大きな矛盾の板挟みに苦しむとも思えたので、その後ことあるごとにその視点から断片的にだが歴史を調べたりした。終戦間際の中国国民党と中国共産党のやり合いだけでなく、その頃の中国は地方地方で群雄割拠の時代だったと知った。だからその頃の中国が少なくとも今から想像するような一枚岩でなかったことや、アヘン戦争以降の欧米との関係から、欧米とアジアという軸で考えて行動する人たちもたくさんいたのだとも想像した。それとソ連の南下にどう対応するのかは日本だけの問題でなく、それを考えて行動している人たちもいたのだろう。でもよくわからない。結局は、「お前は日本人だが別だ」と言われるような行動を開祖がしておられたってことなんじゃないかって、思った。

中国の結社についても開祖の話を聞く中で知った。国家的なトップダウンとは対照的な、家族的な宗教などを背景にした土着の集まりで、その結社の人たちは中国全土に張り巡らされたネットワークで繋がっているらしい。中国人が世界中で商売ができるのもこのような繋がりがあるからだそうだ。結社の繋がりの背後に拳法があることもあるそうだ。この辺の感じはマンガ「拳児」にも出てくる。学校で習った清の時代の義和団事件も同胞を守ろうとする土着の結社の動きなのだそうだ。開祖はトップダウンで繋がることの多い日本に、どこへ行っても合掌礼一つで繋がれる結社のようなものを作りたかったと言われていた。だから日本全国にいる少林寺拳法の拳士は、中国の結社をモデルにしたネットワークで繋がっていると言える。

国家が滅びても民族は残る、という言葉もどこかに出てきた。開祖法話に出てきたこの言葉で、日本の敗戦後の状況をより深く理解できたと思う。開祖が少林寺拳法を作ろうとした状況はよく理解できたし、私には今に至っても普遍的な意味を持っているように思える。

私が、少林寺拳法の道場に通わなくなってしまった今でも開祖の教えはイデア的人間像として私の中に残っている。私は今でも、金剛禅少林寺の門徒であり、少林寺拳士であると思っている。そんな私がなぜ今も少林寺の道場で修行を続けていないのか書かなければならない。それが直接合気道無元塾に通っている理由になる。

でも疲れてしまった。それはまた別の記事で掘り下げることにしたい。


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