いろんな幸せがある
千代田区内を転々としていた時期がある。
世田谷区等々力のポルシェ牧場(←ポルシェがたくさんとまっている駐車場のことを僕が勝手にそう呼んでいた)を垣根越しに見渡せる、うさぎを放し飼いにしようとしていたのだけど結局はできなかったところのかわいらしいサイズの庭――だなんて幸せの象徴みたいなものを備えたテラスハウス――そこで共に暮らしていた前の妻と別れて引っ越して、会社から徒歩三分の神保町のワンルームに二年間独居したのち、同じく千代田区内の九段南にまた引っ越して、そこに四年くらい住んだのだったかな、そのあと再婚し、やはり千代田区内の分譲マンションを購入して二人で住み始めた。
再婚した女性つまり今の妻は、僕が等々力に住んでいた頃そのすぐ近くの尾山台に暮らしていて、結婚してからのちわかったことには、同じコンビニ、同じファミレス、同じスペイン料理屋に通い、同じGAPで服を購入していたようで、出会う前からのえにしに僕らは揃って驚いたのだけど、ともあれ、そんな引っ越しマニアの(落ち着きがない)この僕の、九段南時代の暮らしについて語ってみたいと思っている。
神保町のワンルームに住んでいたときから部屋には冷蔵庫がなかった。コンロを使うこともなかった。帰宅の際に自販機でペットボトルの爽健美茶を買い朝までに飲み切る、ただそれだけの飲食しか部屋でしなかった。神保町が台所だったのである。夕飯は、漫画家かカメラマンかデザイナーかイラストレーターかモデラーか代理店の営業マンかゲームメーカーや玩具メーカーの広報か、そのあたりの誰かと毎晩共にしていたし、深夜から朝方に掛けてへばりつくバーカウンターも僕のマンションの裏手や並びや向かいの地下にあったので、朝五時に内側から店のドアを開け、階段をのぼり、カラスの声が道玄坂か歌舞伎町の朝を思わせるけだるさの中でタクシーを拾い、一緒に飲んでいた漫画家さんだったりを送り出すと、いつもの爽健美茶を買い、すぐさま自宅のエレベーターに乗り込むような毎日であった。部屋にはシャワーとベッドがあればそれでよかった。テレビなんてものもあった気がするがそれをつけることはほぼなかった。会社の仮眠室で寝起きするよりはいくらかインディペンデントな寝床を確保し得ていたというただそれだけのことであった。朝も夜も週末も盆暮れ正月もないような仕事だった(文字通り二十四時間電話が掛かってきた)から公私の区別なんて土台つけようがなかったのだ。親族に不幸があっても校了中は校了しなきゃならなかったし、逆に就業時間中であっても暇があるなら映画を見に出掛けたり、合コン(これも取引先が相手なら半ば以上仕事であったりする)に参加したりすることを咎められなかった。締め切りまでによい頁が入稿できさえしたらあとは好きなようにやってよいと言われていたし僕も後輩にそう言っていた。
僕は住む場所にすぐ飽きてしまうので――、それから神保町二丁目はいくらなんでも会社に近過ぎで、マンションの一階の、千代田区内では貴重な銭湯に会社のやつらが休日勤務の仕事を中抜けしてよくやってきて、公私の区別ってのがどうにもつけようがなかったから、ゆえに嫌になり、二年住んだのち今度は会社から九段坂をのぼって十五分程度の九段南に引っ越して、オレンジ色のミニベロと純白のルイガノのクロスバイクを気分で使い分けながら自転車通勤を始めたのであった。
自転車でなく自動車で出勤するときもあり、その頃乗っていた車はオレンジ色のS-MX(カジュアルな車を、マンションに一台分しかない、分不相応な賃料の駐車場に無反省にとめていた)で、オレンジ色のミニベロを折り畳み、フラットにした後部座席に積んで出社して、会社の地下に車をとめたまま、夜のアルコールタイムを過ごし、近距離過ぎて嫌がられるからタクシーは使わず、車に積み込んでいたミニベロを引っ張り出してそれで帰宅したりするのだけれど、時間が深夜だったり明け方だったり、風体がローライズのクラッシュデニムに杢なカラーのワッチキャップ姿だったりするからか、九段下のお巡りさんに止められ、職務質問だなんてのを度々されてしまった。今と違って当時はまだ酔っ払い自転車に対して公安も寛容で、IDカードで雑誌の編集者であることを示すとたいていは納得して笑顔で見送ってくれたけど。
そんなふうにして自転車で、ときには明け方のすき家でねぎ玉牛丼をかき込んだり、あるいはタクシーで日テレ前のアジャンタに寄って朝のラッサムスープをすすったりしてからUターンして帰着する我が家は、十階建ての最上階に位置するペントハウスで、つまり十階には僕の部屋しかなく、だから僕の上には誰も住まなかったし僕の隣にも誰も住まなかった。
そこもまたワンルームで、しかも全然広くなかった。キッチンがやけに立派で、アイランド型のキッチンテーブルがあり、そのテーブルの向こうがベッドスペースで、セミダブルのベッドを一つ置くと、残されたスペースにはドルフィンという名前の白い シングルソファと、テレビと、白い木枠にアタ製の引き出しが何段か(そこにパンツやソックスやTシャツやタオルをしまっていた)はめ込まれた細長い衣装ラックが一つ、それから鉢植えのアレカヤシとボーグの天体望遠鏡くらいしか物を置くことができなかった。クローゼットや本棚は壁に埋め込まれていて、僕は服をほんの少ししか持っていなかったのでクローゼットはがらがらだったが、本はたくさん所有していたので本棚はややきつきつだった。でも白い扉を閉めてしまえば中は見えなかったので部屋は実にすっきりとしていた。
カーテンやベッドリネンはペルシャンブルーに統一していた。もっと明るいブルーにしたかったけど遮光効果を優先した。雑誌編集者の朝は一般の昼に近いからである。でも壁の白さがあまりにまばゆい白さだったので、ペルシャンブルーとの対比においても部屋はなおギリシャの町並みみたいなイメージを醸し出し、それを僕はすこぶる気に入っていた。
冷蔵庫を置くスペースも本棚にして、プリンターとかかさばるものもそこに配置し、変に広々としたキッチンテーブルの上にはVAIOしか置かず、そこでちょっとしたものを書き、くたびれるとバルコニーに出て煙草を吸い(今は禁煙して久しいが当時は愛煙家であった)、気持ちのよい風に吹かれながら夜空をあおぎ(都心からでも望遠鏡を覗けば惑星の様子なら十分に見える、例えば土星の輪っかとか)、それから部屋に戻ってまた続きを書いた。
バルコニーから眺めると、灯りに照らされた室内は実に好ましく見えた。余計なものがなくて、ほんの少しの好きなものしかない。小さいけれども紛れもない僕の島だった。美しい島だった。
ペントハウスらしく天井は低めで、三角形の梁が屋根のように尖っていて、なんだか山小屋みたいにも見えて、僕はこの愛らしい島を真っ黒羊の丘とも名付けていた。白羊の群れに染まれない、豆腐に落ちた醤油の一点みたいな自分という存在の、実に孤高な丘なのである、とそんなふうに気取っていたのだ。真っ黒羊の丘から眺める景色は素晴らしかった。七階から上が十階に向かって斜めに切り立つように作られたマンションだったので(下から十階を見上げることは不可能だ)、見下ろすと七階までは裾野が見えるのだが、その下は断崖絶壁な様相に感じられた。周囲には十階より高い建物がなく、見渡す町並みは大小の山々が散在した山岳地帯のように見えた。アルプスのてっぺんにいるみたいな爽快感があり、飽きずによくベランダから九段の町を眺めた。
靖国神社は部屋から見て北にあり、そちらにだけは窓がなく、だから神社は見えなかったし、西の窓はスモークだったから光しか感じられなかったけど、南のバルコニーや東のバルコニーから見下ろす街路は桜の並木道で、春に越してきたとき僕はそのピンクの連なりを歓迎のくす玉みたいに感じたものだった。
下ではなく上を見ても素晴らしかった。南のベランダも東のベランダもルーフバルコニーで、頭上にはただ空しかなかった。台風の日にサーフパンツ一枚でバルコニーに出て、雨嵐に打たれて、稲妻に照らされ、かつてオーストラリアのスチュアートハイウェイの路上で経験した大自然の力を擬似的に再体験して喜んだりしていた。
東のバルコニーは居室の幅を超えて北方向にかなり長く続き、その突き当たりには壁に埋め込まれる形で物置きがあったのだけど、これは大変便利で、アウトドアグッズやマリングッズをそこにきちんとカテゴリー別に収納できた。バルコニーにソロテントを立てたり、あるいは夏ならテントなんて立てないで寝袋一つで星空の下に寝た。等々力時代の環八沿いの空に比べると、皇居近辺の空は十分に澄んでいるように僕には思われた。日曜日のベンチで缶ビールを飲みながら文庫本を読んだりしていた――離婚して間もない頃はよくそんなふうにして、ベンチ脇で展開される雀の砂浴びを読書の合間に見詰めていたりした――北の丸公園なんかは実に緑が豊富で――等々力渓谷ほどにはじめじめしておらず、しかし等々力渓谷に負けないくらいの豊かな植物相を観察することができ――、奥には秘密の滝なんてものさえあり、かように千代田区には実は緑が多かったりするのである。
だからかもしれない、夜空のシーイングは普通に想像されるほどには悪くなかった。真っ黒羊の丘天文台と名付けて、仲良くなりたい女性とは、シュラフをダブルに繋げて一緒に星の下で眠ったりしていた。お盆の頃にはペルセウス座流星群を眺めることもできた。
そんなペントハウスにして僕の島であり、かつ真っ黒羊の丘でもある、山岳的な見晴らしの環境を僕はひたすら愛していたのだが、ある日曜日、前の晩が朝まで続いていたから午後の三時過ぎにも僕はまだベッドにいて、独りでいて、どういうわけか素っ裸で、ペルシャンブルーのカーテンは三方向とも開いていて、しかしそこより高い山岳はないので誰からも覗かれることはなく、だからペルシャンブルーのボックスシーツに横たわり、のびのびと大の字になり、流れているボサノバだったかに耳を傾けながら、三方向からの青空に包まれて、スモークウィンドウから強烈にさしかかる陽光に気持ちよく体を灼かれ、コパトーンの香りを幻として感じながら、死んでもいいかな、とふと思った。
僕は独身で、妻もなく、子もなく、親は僕の弟と、僕をハブにした将来的契約関係などというケッタイなものを結んでいたし、だから僕はこの上なく自由で、仕事も自由、暮らしも自由、浮世離れな日々を浮世離れなペントハウスで暮らし、窓の外にはリゾートアイランドに降り注ぐみたいな陽光と、山岳地帯を駆け抜けるような風があり、空は青く、小さな小さな航空機が銀色に光って見えたりして、どこまでもどこまでも世界は僕に無頓着で、だから真っ黒羊としては(今なら、今この瞬間においてなら、間違いなく、この上なく幸せにこの世界とさよならできる)と底の底からそんなふうに感じたのである。
孤独が、あのときほど好ましく感じられたことはなかった。自由が、あのときほど研ぎ澄まされたこともなかった。
あれからずいぶん長い時が経ち、いろんなことがあり、いろんな思いをしてきたわけだけど、今の僕はあの頃の僕とはまた全然違った幸せの中にいる。そして(死んでもいい)だなんて全く思わないでいる。妻が横に寝ているからかもしれない。
いろんな幸せがある。
文庫本を買わせていただきます😀!