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恋愛について

 恋愛について。

 端的に言って恋愛というのは「修行」であるかと。今振り返ってそう思う。

 自分にないものに惹かれる。

 早朝の水溜まりがきらきらと輝いて見える。音楽が聴こえてくる。

 でもいずれは覚める。醒めるというか覚める。

 当然である。

 自分にない要素に焦がれてそれをほとんど神聖視し、相手がこんな自分でさえ持ち得ているもののカケラすらも持ち得ていないのだという事実には目を背けているのだから。

 魔法が解けると馬車はかぼちゃに戻ってしまう。

「ナワシロくんってさあ、記憶力ないの?」

 だなんて友人に茶化されるくらいに性懲りもなく僕は、傷が癒えると途端にまた自分とは対極に居そうな相手に惹き付けられて、でもって長短さまざまな恋愛期間を過ごしてのちいつもの失望を抱えながらしかし見知らぬ場所に辿り着くのであった。

 なぜ?

 なぜそんなことを繰り返していたのだろう?

 たぶん「無意識を自覚するため」だと思う。

 意識化し得ていない自分の「内的要素」は実に恋愛によって揺さぶられ、ぱっちりと目を覚ます。

 ありゃりゃ、僕ってばこんなやつだったんかい。

 と自らを再認識することになる。

 僕を円でイメージすると、僕の内的要素ってやつはその円周上のあちこちに散らばる点である。

 二時の辺りにある点が春子との関係性に触発されて目覚めたり、五時の辺りにある点が夏子との関係性により目覚めたり、六時の辺りにある点が秋子との関係性により目覚めたりするわけだ。

 で、例えば十一時の辺りで目覚めていた自我と、春子による覚醒点は「葛藤」の角度を形成し、夏子による覚醒点は「対立」の角度を形成し、秋子による覚醒点は「調整」の角度を形成するのである。

 自我は「葛藤」に晒され「対立」に向かい合い「調整」により矯正される。

 そんなふうなハードな角度を生きることで僕らは、幾つもの角度を手掛かりに中心点を目指していたのかもしれない。ユングっぽくいうなら「自己を立ち上げ」ようとしていた。

 というようなイメージを僕は恋愛について抱いている。

 傷つけたり傷つけられたりして僕らは目覚め合ってきたのだ、僕らの中心点に。

 お陰で「中心点としての己」をしっかり定位することができたように思う。

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 さて、結婚。

 結婚をこそ「修行」だと言う人がいるが僕はそう思わなかった。

 葛藤も対立も最小限に抑え得る、そして新たに調整し合う部分がほとんどなさそうな相手を結婚相手に選んだ。

 というか、自らの中心に立ったらそういう相手の景色がはっきりと見えてきた。

 トキメキみたいな勘違いをしなくなって、相手のよいところだけでなくわるいところも受けとめられる自分として相手のよいところとわるいところを意識的かつ能動的に求めることができた。

 天動説を脱し地動説を受け入れた自分が地球ではなく太陽として月のみならぬ太陽系の全般を受け入れる覚悟で結婚に臨んだのである。

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 だなんてコムズカシイ書き方をしてしまったが、ヒラメのように平たく言うなら「浮わついた気持ちではなくシラフで相手を受け入れた」ということである。

 自我ではなく自己で相手を好きになった、と言ってもいい。

 魔法の杖を投げ捨てて、二人で入れるくらいの大きな傘を手に取った、ということでもある。

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 恋愛が「修行」なら結婚は「受容」である。僕的なイメージではってことだけど。

 イージーじゃない角度を統合し続ける修行的な結婚生活もあるだろう。結婚したのちに中心点を目指すのももちろんアリだと思う。

 いろんな恋愛があり、いろんな結婚がある。それでいいと思う、まったく。

 ともあれ我が家は平和である。

 ずいぶんと凪いでいる。

 やがて刻が来てこの水面にオレンジ色の道ができるのかもしれない。

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 その道を渡って僕らはほんとうの太陽に帰着するんじゃないかな。

 悪くない。
 そう思う。



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