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ベテランの編集者ほどモノサシをしまっておく

 例えば、noteの記事のタイトルについて。

 タイトルだけ見てナカミがわかるようにするべきだ、というモノサシがあったりする。タイトルを見出しだとする考え方なのかもしれない。

 他方で、タイトルを釣り針として機能させるやり方もある。「!?」と思わせるインパクトで興味をひくわけだ。タイトルだけ見てナカミがわかってしまったら、スクロールする意欲が失われてしまうかもしれない。

 ことほどさように、よいタイトルについての基準はさまざまであるわけで、端的にいうならいろんなやり方があってよいということだ。そう思う。

 マニュアルみたいなものがあると誰もが簡単にモノサシを持つことができるわけで、だからモノサシを振り回して訳知り顔をする人も出てくるのだが、こと表現についてはモノサシなんて持たないほうがよりよきジャッジのできることが少なくないような気がする。なぜなら表現は実に複雑系であり、一つや二つのモノサシで優劣を判断できるようなものじゃないからだ、たぶん。

 そもそも表現に優劣なんてあってしかるべきじゃないともいえる。でもまあ例えば商業主義的に考えると、よりよい表現とはよりたくさん売れる表現なわけで、だから売れるか売れないかという価値基準がそこに生じてしまうことは必然であったりする。しかしだ、そのような商業主義的にはかられるところの表現であったとしてもなお、モノサシでちゃっちゃとはかってしまい得るという考えはビギナーさんによるものだと言ってしまいたい。

 例えば漫画雑誌の新人編集者は、配属された雑誌のカラーに基づいたいくつかのモノサシを先輩より与えられる。で、賞への応募があった原稿や、持ち込みのあった原稿に対してそれをあてはめる。これは通す、これはボツ、と原稿を右にやったり左にやったりする。かなり機械的な作業である。数が半端ないのだからまあ仕方がないといえなくもない。

 でもそういうやり方に便宜的な意味以上の価値がないことは、何年か編集者をしていれば自然にわかってくる。

 当たる漫画の方程式をハリウッドみたいに堅持している漫画雑誌もあるわけだけど、そういう雑誌においてもなお、当たり前だけど新しさは求められているわけで、旧来のモノサシでははかれない規格外の新作に対して編集者は渇望に近い欲求を抱いている。だからモノサシではかりながらも実はいつでも思っているのだ、こんなモノサシをへし折ってくれるようなスゴいのがみつからないかなあ、と。

 若い頃、経験値の低い時分にはモノサシに頼らざるを得ない。なんらかの基準がないと選ばれる側の表現者も納得してくれなかったりするし。でもベテランになると編集者はモノサシを脇に置くようになる。一義的な基準じゃはかれないのが表現だってわかってくるから。冒頭の例でいうなら、わかりやすいタイトルもいいしわかりにくいタイトルもいいんだってわかってくるから。だからベテランの編集者ほどわかったようなことは言わない。ただ「僕はいいと思いました」だとか「僕には面白さがわかりませんでした」みたいな寸評しかしなくなるのである。

 とはいえ漫画雑誌には一つだけ絶対的なモノサシがあった。読者アンケートである。編集部は読者が入れた票数を折れ線グラフにして管理していた。どの漫画がどのようなカーブを描いているか、これは客観的なデータである。商業出版であるなら、連載を続けるか打ち切るか、読者アンケートが基準になるのは当然である。しかしだ、しかしそれであってもなお編集長は、アンケートデータをそのままモノサシにしてジャッジをするわけではない。(今はそうだ、今の読者はAを求めていてBを求めてはいない、しかし三年後はどうか、五年後はどうか、三年経ったらオレはもうこの職を外れているかもしれない、けれども雑誌は続いてゆくのだ、三年後、五年後に求められるであろう漫画を今育てることは肝要である)とまあ気の利いたボスならそんなふうに考えたりもする。だからアンケート結果がふるわなくとも編集長案件として連載を継続してしまったりもする。文句を言う編集部員もいるわけだが、土台雑誌は民主主義的なものではない。雑誌は編集長のものである、というムカつく系の命題を編集者は、配属と同時に知らされたものである。

 既知のモノサシには頼れなくなり、読者アンケートですら絶対ではない、そんな曖昧模糊とした世界で次世代の表現は発見されてゆく。思うに表現は生き物で、表現自体に生命力が宿っているのだ。編集者ごときの浅知恵で表現の勢いを削ぐことはできない。

 読者の嗜好だってそうで、価値ある表現を排斥することはできない。編集者は、アンケート結果のふるわない漫画であっても、これはホンモノだと思えば隣の編集部に紹介したりする。少年誌で芽が出なくても青年誌で花開いたりする漫画も珍しくなはない。少女誌に紹介したら大ヒットした表現もある。あるいはマニア向けのフィールドでこそ真価を発揮する作品もあるのだ。だから一つの雑誌の読者の評価が絶対なわけでは断じてない。

 つまり表現は、本来的には、はかられることに馴染まない。表現は自律的にパフォーマンスする。その手伝いを、編集力や宣伝力や販売力によって会社がさせていただく場合がある、というだけのことだ。

 編集者がエラいわけでないのは当たり前だが、表現者(作家)がエラいわけでも本当はない。表現者がエラいんじゃなくて表現そのものがエラいのだ、たぶん。偉い、すなわち偉大なのだ。だからすべての表現は、相応にリスペクトされてしかるべきであり、「こんなのゴミだよゴミ」みたいに言う人間はテメーがゴミなんだ(!)と思い知らなくてはいけない、だなんてそう思う。表現は、表現であるだけですでに十分にたっとい。

 と、そんなふうに思うので、noteの記事を読ませていただきながらいろいろ感じさせていただいて、敬愛の念を抱いている、一つ一つの表現に対して。

 表現は、表現されることが目的であり、おそらくはそれ以上の目的を持たないのではなかろうか。人間にとって、生きることそのものが目的であり、生きる目的、だなんてものが限定的な価値判断に基づく思い込みでしかないように。

 自由。

 表現は自由である、公共の福祉に反しない限り。憲法がそう言ってるし、今のところまだ憲法は改められていないのだから、僕らは自由に語ったらいいわけだ、人さまの迷惑にならないように、そこんとこだけ気をつけながら。と思いつつ、こんな勝手な表現を僕も、今日も気ままにアップさせていただいちゃうのである、よきかな🤔? よきかな😃!


photo:John Hain

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