チーターになりたかった女(ひと)(2650文字)
妻と散歩をしていた。
散歩、だなんておじーちゃんとおばーちゃんみたいだけど、妻はおばーちゃんじゃなくても僕は正真にして正銘なおじーちゃんなので、――文句あっか? とばかりにずんずん歩いていた。
野良猫も道を譲る勢いである。
そしたら出し抜けに妻が言った。
「島田のおばちゃんのこと、思い出しちゃった」
――島田の、おばちゃん?
「実家の斜め向かいに住んでた人のこと」
結婚前の妻は都内の住宅街に住んでいた。
「すごい人だったんだよ。島田のおばちゃん」
――すごい?
「うん。痩せててね、身長も155センチくらいだったんだけど、ペネロペ・クルスみたいな顔してて、そんでヤクザよりもヤクザみたいな人で……」
ちょい待ち、と思った。ペネロペ顔のヤクザって……?
「もしかしたらハーフとか、だったのかな? 中学生のときにお父さんもお母さんも亡くしたって聞いてたけど、お父さんかお母さんがスペイン人だったのかもね」
ペネロペってスペイン人だっけか?
「タカシくんもサクラさんもすっごーく美形だったしなあ」
――誰かな? そのタカシくん、サクラさんってのは?
「島田のおばちゃんの息子さんがタカシくん。あたし、子供の頃よくスカートめくられてたよ。でもってタカシくんのお姉さんがサクラさん」
へえ。スカートを、ねえ。
河原に出た。風が気持ちいい。
「タカシくんったら俳優みたいにカッコよかったから女の子にモテてねえ……」
――じゃ、スカートめくられてもまんざらでもなかったんじゃん?
「まあね♪」と妻はわりと本気な横顔で笑ってから続けた。「でも中学出てすぐタカシくん、ヤクザになっちゃって……」
――ふむふむ、15かそこらで道を極めんと欲したわけですか。
「だけどそのうち組を抜けたくなっちゃったみたいで……」
――道を極められなかった?
「そんでね、島田のおばちゃんが……」
ペネロペが……?
「出刃包丁持って組を訪ねて……」
え??
「あたしの指くれてやるから息子を抜けさせてくれって」
――お、漢(おとこ)だねえ。
「その前からさあ、タカシくんがワルさするたんびにおばちゃん、包丁持って被害者んとこ行ってね、そんで、うちのバカ息子がこの度は不埒な真似さらしまして……とか言って、タカシくんの小指に出刃当ててさ、ちんけな小指じゃ済まないようなら母親であるあたしのこの親指めもちょんぎって並べますんでそれで勘弁していただけませんでしょうかって……」
――東映の小屋で掛かってそうな話だなあ。
「迫力にびびってヤクザの人も、そうでない人も、いや指はいいから……みたいなことになって……」
――なかなか、お騒がせな……
「そう。近所でもすごく有名な人で。おばちゃんってばチーターが好きでさあ……」
――チーターってあの足の速い……
「そうそう。豹柄じゃなくってチーター柄のツナギとか着ちゃってさ」
――ツナギ?
「うん。ツルツルとした素材のチーター柄の上下とかピッチリ着込んでそのへん歩いてたから結構目立って……」
――すごいな。なにやってる人だったの?
「主婦にして、かつ飲み屋のママさん。元々は銀座のナンバーワンホステスさん」
――旦那さんは?
「すっごく真面目な、東大卒の元エリートサラリーマン。銀座のお店にお客で来てたのをおばちゃんが口説いたみたい。そんで結婚して、会社辞めさせて、おばちゃんが始めたお店のマスターにしたんだって」
――ふうむ。
「おばちゃんはね、タカシくんといっしょで中学までしか出てなくって。ほら、ご両親亡くしちゃってるからさ。6人きょうだいの1番上だったみたいで、中学卒業してすぐに働いて、そのうちもっと稼ぐために水商売の道に入って、でもって弟や妹みんなを大学まで行かせたらしいんだ」
――偉いな。
「うん。弟の一人なんて大成功して、アメリカのビバリーヒルズに住んで……」
――びばりーひるず、か。
河原の堤の中ほどで、犬を連れたご老人とすれ違う。
「そうだ。おばちゃんね、ドーベルマン飼ってたんだよ!」
ペネロペ・クルスとドーベルマン……
「繋がれてたんだけど、ときどき鎖を引きちぎっちゃって」
え?
「そのへん歩いて、うー、とか言ってるんだ」
――危ないじゃん。
「パパなんかさ、夜会社から帰ったら、うちの前にドーベルマンがいて、ぐるるる、とか唸ってるから家に入れなかったことがあったみたい」
思い浮かべたら、自分の眉のうねるのがわかった。
「おばちゃんったらドーベルマン連れて歩いてて、だからあたし立ち話とかしてても横で犬が、うー、とか唸ってると落ち着かなくて」
……わかるよ。
「あたしが怖がってるとね、おばちゃん、こら唸ってんじゃねーよとか言ってドーベルマンのアタマぱかーんとかはたくんだよね。気が気じゃなかったよ」
――ふええっ。『ドーベルウーマン』としかいーよーがないっ!
「泥棒とか悪い人がいたら、行けっ! みたいにドーベルマンけしかけるんだって言ってた」
――超能力少年と黒豹みたいだなあ。
「ほんとはチーターが飼いたかったのかもねえ」
――なんでチーターなんだろ?
「さあね。でもね、おばちゃん、若くして悪い病気がみつかっちゃってさ、余命半年って言われて会いに行ったんだよ」
――誰に?
「チーターに」
――どこに?
「アフリカに」
――えー。だって免疫とか落ちてたんじゃないの? 飛行機乗って、アフリカ行って、でもって野性動物に……?
「そう。お医者さんにはダメだって言われたようなんだけど。でも、あたし死ぬのは怖くないからって言って会いに行っちゃったんだって。ビバリーヒルズの弟さんが旅費出してくれたみたい」
――そ、それで、会えたのかな??
「うん。会えた!」
――そうか、よかったな。チーターみたいに駆け抜けた人生だったのかな……、で、思い残すことなく……
「治っちゃったんだよ」
――え?? なんだって?
「治ったの。帰国してから検査したら、悪い細胞なくなっちゃってたんだって」
なんと!
「ずうっとチーターになりたかったんだってさ。だからチーターに会えて、嬉しくて、心も体も喜んじゃったんじゃないかなあ?」
堤の下からまた猫。道の真ん中でこちらを見て、前足を舐め、しなやかに身をくねらせると俊敏に走り去った。
ペネロペ、出刃包丁、ドーベルマン、不治の病、アフリカ……と僕は思った。
冬晴れの空が青かった。
立ち止まり、きんと冷たい空気を吸い込んで、ネコ科の動物になったつもりで伸びをした。
「家まで走って帰るか?」
と尋ねたら、妻は、
「やだよ」
と応えてあくびした。
ま、そだよな、と思って僕はまた、穏やかな気持ちで空を見上げた。
文庫本を買わせていただきます😀!