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閉鎖病棟記

 閉鎖病棟に入院した過去の一ヶ月の記録であるがなるべく正確に思い出して記したい。

 私は医者に診断された精神病患者(統合失調症)である。幻聴、幻覚などがよく特徴とされている。精神病棟への入院体験を通じて病識はあると思うが幻聴幻覚は多彩であった。入院での投薬治療を通じても幻聴、幻覚が収まることはなかった。
また大体の統合失調症患者は患者を責める幻聴を聞くことが多いが私の場合は友好的な様々な(誤解を招く恐れはあるが)「存在」の声も聞いていた(責める声が全くなかった訳ではないが)。


 入院前に話しを戻すと夜中息が出来ない苦しさで救急車や家族が運転する自家用車で何度か運ばれたりもしたその中の病院の一つで統合失調症と診断され私は入院することになった。
 夜中隔離室に入った私は特にやることもなかった。隔離室は例えると動物園の檻のような印象を受けた。もちろん自由に出たりすることは出来なかった(施錠され、檻の柵の下のところから食事や水が運ばれる)トイレだけは付いていた(何か起こったときのように外から見える)。枕や布団はなかった。
 好きなだけ寝たり手をぶらぶらさせたり体を動かしてそれなりに昼間は楽に過ごしていたが、夜中になると襲われる過呼吸だけが苦しかった。
 ある夜、特にひどい発作が起きたときに私はのたうちまわって息苦しさから外に出たくなりドアを蹴ったりしたが誰にも気づかれなかった。病室を覗く窓があったが職員に気付いたとしても理由は分からないが無視された。たぶん幻覚妄想で暴れているという認識だったのだろうが息が出来なくて外の空気を吸いたかったのだ。


 息苦しさで意識が朦朧とする中、何かの存在が沢山飛んでいるのを微かに感じた。その時、その存在が見えていたか、見えていなかったか覚えていない。正直、苦しさでそれどころでなくトイレでうずくまりただひたすら息が出来ることを願い、下手な呼吸を繰り返していた。
 その時、ある存在が飛びながらゆっくり近づいてきて私の苦しさを見て「苦しいのですか」と聞いてきた。私は藁にもすがる思いで息が出来ない苦しみを訴えた。すると存在たちは「息を吐いて1・2・3・4・5・6」「止めて1・2」「吸って1・2・3・4」と私の呼吸を整えようとしてくれた。しかしなかなか息苦しさが収まらない私は(今思うととてもひどいが)「楽にならない」と言ってしまった。その後、意識がなくなり何も覚えていない。この幻覚(あるいは存在は何だったのだろうか)。


 また別の日、また夜中ではあるが過呼吸の発作も起きずゆったり寝転んでいた。私は何かの気配を感じた。存在が三、四体ぐらい浮遊しているのを感じた。そして耳に、快適な人の声ではあるが電子音も少し加えられたようなソフトな声でこのように語りかけてきた。「私の姿見える?」
私はいたって平静な気持ちであった。私は彼らの言葉に誘導されながら目をすぼめながらぼんやりと見ると、二、三体の存在が見えてきた。半透明で足は三本、小さな球体であった。手は二本である。動く彼らの姿を追っているとしばらくしたら見えなくなった。不思議な気持ちだった。(おそらく)過呼吸のときに声をかけてくれた存在たちと思った。


 隔離室での楽しみと言えば三度の食事と水を飲むことだった。食事の内容はバランスが取れた食事と言った感じで具に比べてご飯が多かった印象がある。私は喫煙者だったがタバコは当然吸えず、気分転換のコーヒーもなかった。タバコも吸えずコーヒーも飲めないのはキツかった(タバコはその後、ニコチンパッチの差し入れでしのいだ)。
食事や水は檻の柵の中間で渡された。相手と直に接触することはなかった。


 ある夜激しい過呼吸に襲われた。何としても外の空気が吸いたくなり「息苦しい出してくれ!」と叫んだが見回りの職員と柵越しで目があっても職員は反応しなかった。そういうガイドラインがあったのだろうとは今では思うが当時はそれどころではなかった。施錠されたドアを足で蹴り「出して下さい」と叫んでいたら、1匹の小さな虫がお腹のあたりからピョンと飛び出してドアに体当たりし始めた。虫は「オレも力を貸すぞ!」と言ってくれたが私は息が出来ずそれどころではなかった。
見回りの医師が駆けつけてくれて、廊下で私を支えながら医師は数メートル、ゆっくり行ったり来たり少しだけ歩かせてくれた。息苦しさはあったが少しだけ楽になった。また隔離室に戻り寝たが虫のことは忘れていた。


 昼間は過呼吸もなく静かにしていたせいか医師の面談を経て、本を一、二冊だったと思うが差し入れて貰えるようになった。持ち込める本の冊数には限度があり、また本を読める時間は制限があった。無論スマホなど持ち込み禁止であった。鉛筆とノートもダメだったが後に許された。


 私は両親が以前面会しに来てくれた時に(もちろん柵越しである)何でも良いから西洋名画集一冊と私が入院する前に古本屋で注文した『なごやの屋根神さま』をお願いしていた。差し入れで持って来てくれたトマトジュースが美味しかった。


 昼間でも幻聴は聞こえていた。気になるときと気にならないときがあった。その幻聴は隔離室に入る前から聞こえていた若い女性の声だった(それ以外の幻聴、声もあった)。はじめ隔離室に入った時(深夜である)は若い女性の声で「なにされるか分からないから六法全書を差し入れて貰いなさい」と言っていた。否が応でも私は怖くなってしまった。「六法全書を下さい」と外に叫んでみたが届いているのかいないのか反応はなかった。翌日には六法全書は不要であり、若い女性の声は杞憂であると知った(この頃、私は幻聴の声の内容をそのまま信じてしまう危険な意識状態であったと思う。しかし時間が経つに連れて幻聴に限らず事実かどうかに常に執着するようになった)。


 ある日、その若い女性の声をした幻聴に関心があった書「ホツマツタエって知ってる?」と聞いたら「私はホツマツタエが好き」と言っていた。以前の両親との面会でホツマツタエも頼んだが次の面会のときに忘れてしまったと父は言っていた。病院側で配慮で差し止めしたか本当に父が失念したかは分からない。
当時、ホツマツタエの内容はほとんど知らなかった。ホツマツタエは江戸時代の偽書とされている。


 檻のような隔離室から小綺麗な個室の病室に移動することになったが施錠はされていた。人と話す機会が医師との面談を除けば皆無に近いので寝てる以外は幻聴と話す機会が多くなっていた。ちなみに薬は処方されて飲んでいたが特に幻聴や声が消えることはなかった。若い女性の声はあまり聞こえなくなったが時折り聞こえた。ある日家でも聞こえていた別の幻聴の声が幻覚を見せてくれた(私が幻覚を見たのだけどその幻聴の声が時折り案内する形だった)。


 司祭のようなおじさんが壁に写っていて神秘的な話しを(なんとなく西欧の秘密結社の通過儀礼のような内容だったと思う)する幻覚を壁に投射されて見ていたが私は緊張していた。
幻聴の声は「この人は本当は優しいの」と何度も表現を変えて伝えてくれた。家から聞こえていた馴染み深い幻聴の声は「きんぎょ注意報!が好き」と言っていたので私は金魚に見立てていた。声はアニメの声優のような声だった。幻覚のおじさんも決して恐ろしい存在ではなかったと思うが、最後に「幻想から目覚めなさい」と話した。空中から金魚に私が見立てた幻聴の声が聞こえていたが司祭のおじさんは「イメージで彼女を斬り殺しなさい」と言った。私は刀のようなものをイメージして斬ろうとした、が、やめてしまった。可哀想と思ってしまったのだ。その後、その日どうなったかよく思い出せない。

(※後編は遅かれ早かれ記します)。

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