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郷土紙という超ローカル新聞(連載3) コネ採用はあたりまえ

新聞は文化?

今回から私がかつて働いていた郷土紙(超ローカル新聞)であったできごとなどを書いていきます。なお、実在の人物、団体に差し障りがないように一部の設定や地域、背景、登場人物のキャリアなどに味つけをし、固有名詞や行政地区名はほぼ仮名です。ご承知おきくださいませ。


私がいた新聞社は、発行部数が1万部程度の超零細郷土紙です。
公称ではもう少し盛ってありますが、実売部数は、1万部くらいです。

あ、そこの人。今発行部数で調べようとしていますね。この部分も多少ボカしているので検索はおやめください。

この新聞は、戦後すぐに創刊されたので、すでに70年以上続いています。
よくいえば伝統ある会社、老舗企業です。
しかし、会社の寿命は30年などと適当なことをいう評論家の言葉を信用するならば、すでにゾンビ企業になっていておかしくありません。

これまで何度も増資と融資を繰り返し、帳簿上はなんとか債務超過企業になっていないというだけで製造業や販売業なら、とっくの昔につぶれていてもおかしくないような状況です。

しかしながら地元の主力企業である遠浜交通(仮名)会長が「新聞は文化だから」という鷹揚な方で「新聞のない街になったら民度が下がる」とおっしゃって今日まで増資に債務保証といった支援を続けてくださっているからこそ存在しているようなものです。
他地区の郷土紙との交流はあまりないため、よそのことはわかりませんが、このような財務状況の新聞社も少なからずいるのではと思います。

ワンマン経営のコネ採用

地元の顔役的な企業に支えられているとはいえ、基本的に地方の零細企業ですからワンマン経営が続いています。

社内組織は、大企業のような複雑さはなく、指揮系統も非常にスッキリしています。
大別すると、取材して記事を書く編集局と広告を獲得して紙面に掲載する広告局、新聞を配達してもらう販売店や駅の売店などとやり取りをする販売局に分かれています。でき上がった紙面を輪転機で印刷する部門は、編集局が担っています。全国紙と比べるとスッキリしていますが、全体的にはあまり変わらないはずです。
もちろん、このほかに総務部と社長室などがあります。

発行部数や取材対象エリアが狭い5000部クラスの小さなところでは、制作部(または報道部)と営業部のほか事務部門しかないようなスリムな新聞社もあります。いずれにしても各部門とも少人数、全社員が100人以下というのが一般的です。中には20人くらいでやっているところもあるようです。
私がいたところも、100人に満たない2ケタ後半の小所帯でした。


経営者の意向が強く反映されるワンマン企業のため、コネ採用もあたりまえの世界です。私のケースでも比較的すんなり採用に至りました。
新卒ではなく30歳を少し過ぎていて、ここまで新聞記者という仕事をしたことがなく、タウン誌のライターくらいしかしたことがない私が入社できたというのがそれを物語っています。
のちのち同僚や上司についても紹介しますが、郷土紙のような小さな新聞社は、記者職に限らず新卒採用よりも圧倒的に中途採用が多いです。
たしかに新卒でいきなり田舎の小さな新聞社に就職するというのは考えにくい選択ですよね。

採用までの所要時間は


3時間30分ー。
私が新聞社の社長と顔を合わせてから採用が決まるまでの時間です。
「話をつけておいたから大丈夫」という伯父のことばを信用していなかったわけではないのですが、拍子抜けするくらいすんなり決まったというのが実感でした。

かつてほどの人気がなくなったとはいえ、全国紙で記者職の内定を大学4年生の10月1日(または6月1日)に取りつけるには、2年生の終わりまでには行動していなければならないと思います。
いや、入学とともにマスコミ研究会に入っているほうが合格率が高まることを考えるとさらに長い期間を必要とするといっていいでしょう。

公称発行部数1000万部弱の大新聞や経済紙として世界一の発行部数を誇るような誰もが知る新聞社と比べることがそもそもおかしいのですが、公称1万部のローカルな新聞社は、1人の記者の採用にそこまで時間をかけないものらしいです。

「4時半に駅前で」
という約束に間に合うように東京から新幹線に乗り、高校生のころに通ったなつかしさが少し残る駅前に立ちました。
15年前は、都会にみえた「駅前」でしたが、もうその面影はありませんでした。

地方の衰退は、21世紀になって加速度的に早まっています。
駅前の商店街が衰退したのは、駅から遠く離れた郊外、田んぼの中にお城のようにそびえ立つ「Aから始まる四文字」が原因なのは、どの地方都市も同じです。
東京では、私鉄沿線で各駅停車しか止まらなくてもある程度商店街が機能しています。人口規模が違うとはいえ、ずいぶんな違いです(もちろん私鉄沿線商店街も格差はあります)。

実際、私を迎えに来た社長の四谷玄次郎氏は、駅前ロータリーにポツンと立っていた、一度も会ったことがない私の前に車を停めました。
何しろ駅前で待ち合わせしているのが私と数人の高校生、高齢者くらいでしたから。

四谷氏は、ここ遠浜県(仮名)の南部地域、本郷市(仮名)を中心とした3市5町60万人の地域で発行されている郷土紙「本郷日報(もちろん仮名)」の社長です。
私は、てっきり採用担当の方がやってくるのかと思っていました。「新聞社は社長がいちばんヒマだから」と四谷氏。あまり高級でない国産車に私を招き入れました。
伯父と四谷氏は、異業種の経営者が交流するとある奉仕団体を通じた知り合いだそうです。
回るほうなのか百獣の王なのかは特定の可能性が出てきてしまうので伏せておきます。


10分もしないうちに本郷日報の社屋に着くと、そのまま社長室に通されました。
四谷氏が最初に話題にしたのは、遠浜本郷駅前のバスターミナルでした。

「暗い、…ですよね」
印象を尋ねられたので私はこのように答えました。
以前は、駅を出てすぐに待ち合わせができる広場があり、そこから大きな交差点を経て駅前大通りと商店街通りへ通じていたのです。当時バスターミナルは、駅の地下にありました。
10年前、バスの利便性向上などを理由にバスターミナルを地上に移設する工事が完了しました。同時に歩行者と車を分離して事故防止を図るために歩道橋と広場を兼ねたペデストリアンデッキが作られたのです。

これにより、駅前大通りや商店街へは駅からダイレクトにつながるため、人の流れが良くなるという狙いがあったわけですが、駅の出入口がバスターミナルのある1階とペデストリアンデッキのある2階に分かれてしまったため、思ったほどの効果が認められていないようです。
しかもバスターミナルのロータリーがペデストリアンデッキに覆われているため、日陰になってしまうという状況です。

この話で、四谷氏とは思った以上に批判的に盛り上がりました。1時間後に「いい時間だから」と席を立ち、社内を簡単に案内され、そのまま駅前商店街の中の個室のある和食店に席を移しました。
駅前ペデストリアンデッキの話題に続き、15年前と今の本郷市の印象の違い、昔の駅前商店街のことなどさまざまなことを話しながら2時間ほど過ごしたことを思い出します。

店を出るとき
「それでは、来月1日から来てもらえますか」
のととこと。
その口調は、取引先と次回の商談の日程の調整をするかのような軽いノリでした。

履歴書も職務経歴書の提出もないまま、コネ以外の何物でもない形で採用が決まった瞬間です。



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