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郷土紙という新聞(連載14)左側にはいつもブーメランが!

【見慣れない大刷りが!】

取材から帰ると、私のデスクの上には見慣れない大刷りが2枚置いてありました。
大刷りとは、入稿された記事と写真を紙面として編集した印刷前の原稿です。ゲラというほうがわかりやすいかもしれません。

記事を書いた記者とデスク、編集局長、紙面を組んだ整理記者らに必要な紙面(ページ)が配られます。
通常、大刷りは記事を入稿した後にもらうものです。
午後の早いうちにもらうとしたら、前日までに入稿した記事があるというとになります。
その日、事前に入稿した記憶がない私は、大刷りをもらうことはないはずです。
しかし、現実に大刷りが2枚置いてあります。

理由はすぐに判明しました。
自社主催の小学生の絵画展入選者及び参加賞一覧の原稿です。ブランケット版1面に学校別に分けて名前がびっしり載せられています。
数年前から編集局と事業を主催する社長室の2部門は、えらい人以外全員が校正作業に参加して名前の確認をすることになりました。
私が入社するだいぶ前のことですので詳細な経緯はわかりませんが、昔と比べると紙面での名前のまちがいが増えてきたことが原因のようです。


【今も続くソフトな環境キャンペーン】

本郷日報(仮称)では、発行エリアの小学生を対象にした絵画展を1960年代から始めています。
※多少事実を加工していますのでここから特定するのは難しいと思います。

絵画展を主催する経緯は、若干歪んだ理由がありました。
高度成長期、遠浜県南部地域にも大手製造業の工場が複数誘致されるようになりました。本郷市(仮称)を始め、隣接した湯島市(同)、当時は町だった松住市(同)も人口が増加しはじめ、市税も年々増収の一途をたどりました。

工場で働く人のための住宅確保などで徐々に田畑が減りました。県営、市営の団地も建ち、山を削って一戸建て住宅用地の開発もされ始めました。モータリゼーションの発達は田舎にも波及し、道路も拡張されてきました。
その結果、今でいう「日本の原風景」のような田舎的な景色も少しずつ変わってきました。

当時の社会面を担当していた記者たちは、「自然破壊につながる大規模開発をこれ以上進めてもいいのか」という趣旨のキャンペーンを何度も張ったようです。しかし、地元の企業人に支えられている郷土紙というカテゴリーの新聞のため、あまり大きな声にはなりませんでした。

当時のことを知る記者の証言によると、市政や地元経済担当の記者の中には、そのようなことはジャム新聞(実際には某政党機関紙の実名をあげて)でやってくれとのたまわられた方もいらっしゃりやがったようです。
今でこそ社内はそこまで殺伐とした雰囲気ではありませんが、当時は多少、市政サイド=保守層vs社会正義追求=革新寄りという派閥がありました。
今も派閥がないわけではありませんが、そこまで火花が飛ぶことはありません。

そんな中で保守層も受け入れることができるような策を思いついたのが当時の社会部側の副編集局長。「ふるさとのすてきな風景を描こう」という小学生を対象にした絵画展を自社で主催すべく先々代社長に掛け合いました。
本郷日報としても、文化、スポーツ、社会貢献関連のさまざまな事業を行ってきましたが、文化事業の中で小学生の絵画展は手掛けていませんでした。
当時は羽振りの良かった時代です。将来の読者である子供が自社の新聞に親しみを持ってもらうには良い企画だということで社会面担当副編集局長の提案はあっさり通りました。
今も続くソフトな環境キャンペーンです。

子供たちが描くふるさとの風景をいつまでも残したい。そのために我々はどうすればいいのかという思いが込められているようです。今では、保守層にとってふるさとを守るというように利用されている面もあります。

2000年代半ばに社会面担当の副編集局長だった日比谷公夫氏(仮名=当時を知る記者)が、社会面の仲間として私の歓迎会を開いてくれたときに自慢気に教えてくれたのを覚えています。私としては、配属されたがゆえの災難のように感じましたが。
※郷土紙の定年はあってないようなもので、70歳を過ぎても現場で取材している人はいます。


【会議室を埋め尽くす絵の山】

社会面担当副編集局長の狙いを隠すように、表向きの理由は子供たちがふるさとを愛し、自然にふれあいながら芸術性を高めるというものだったため、県や周辺市町と各教育委員会の後援も簡単に取りつけられました。地元企業からの協賛広告も多く集まり、今もその関係が続いています。
その結果、毎年4月に募集を開始し、10月半ばまでに社内の会議室の1部屋を埋め尽くす大量の絵が送られてくるようになりました。
全員が送ってくるわけではありませんが、参加賞がついているのでけっこうな数が集まります。絵が得意な子はもちろん、夏休みの宿題未提出を許してもらう代わりにイヤイヤ参加するケースもあり、最盛期は1万点以上の絵が送られてきたそうです。

少子化の2000年代に入っても本郷日報のエリア内に4万人以上の小学生がいるのです。今もかなりの数の応募があります。
これはキャンペーンというよりテロとしか思えません。
経緯を考えれば社会面担当は、社長室(事業担当)とともに積極的に関わらなければなりません。手柄ばなしのように語り継がれていますが、負担を考えるとブーメランです。

集まった絵は、各校から数人ずつ有志という名の貧乏くじを引いた先生たちと社長室スタッフ、社会面担当の副編集局長、文化担当記者の日暮里氏らが入選候補作を選びます。
入選候補作を学年別にまとめ、地元出身の日本画家の先生の家に押しかけ最終審査を行います。

本社事業なので、当然これは審査風景や応募受付開始、会議室にたまった応募作品など何度も経過を報告する記事が掲載されます。
それを経て最後に入選作品の紙面発表と参加賞(全員)の氏名掲載、表彰式と大賞にあたる日本画家の名前を冠した賞の受賞者のインタビュー、次回の応募要項(毎年同じですが)までがこの事業のセットです。


【90年代の名前は美しく翔んでいた】

審査までの一連の流れは文化担当ではないので関わることはありませんでしたが、名前校正の仕事は回ってきました。編集局全員参加という建前はありますが、社会面担当が校正の主戦です。

校正をしていて気づいたことは、「子」や「彦」が減ったというあたりまえのことくらいでしょうか。何しろ1面に何人載っているのかわからないくらいたくさんありますから名前の分析などしているヒマがないというのが実情です。
名簿と名前、学校名、入選か参加賞かなどまちがいや入れ違いがないように慎重に確認します。事前に決まっていることなので何日か時間をかけられますが1日の終りにこれが残っているかと思うとちょっとブルーになります。

田舎でも90年代生まれに人気上位だった翔とか美咲とかその当時の人気の名前がそれなりに出てきます。チェックも進んでくると注意点がだんだんわかってきました。「琉」を「流」とまちがえていないかとか「美保」や「美帆」が「美穂」になっていないかなどがチェックポイントです。
※全国の美穂さんが決して年齢が高いとか古い字の選び方だといっているわけではありません。

このほかにも名簿のような名前の校正を必要とすることは年に何度かやってくるのですが、人の少ない新聞社の悲哀を感じる場面の一つでした。


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