見出し画像

【短編】 個

 いつもと同じ退屈な休日の昼下がり。天気もいいし駅前の本屋にでも散歩に行こうかと思った僕はかるく着替えると玄関のドアを開けた。

 停滞した部屋の空気とは違う、少し肌寒いくらいの新鮮な空気。どこかから帰ってきた時はどんよりと重苦しい空気が満ちているように感じる場所の空気が新鮮に感じるくらい、僕の部屋の中は淀みきっているのだろうか。わからなくもないけれど、わかりたくもない。
 そんなことを考えながらドアを閉めていると、ふと隣の家のドアが開いて中から人が出てきた。

 佐々木のじいさんも出かけるところなのか。
 隣人の佐々木さんは僕がこの部屋に越して来る前から隣の部屋に住んでいた人で、90を超えているとはとても思えないくらい若々しくて機敏な爺さんだ。密な付き合いはしていないとはいえ、お互いの話をするくらいには付き合いはある。

「あ、佐々木さんもお出かけですか?」
 まだ鍵穴に刺さっている鍵から目を離さないまま、僕はいつも通り佐々木のじいさんに声をかけた。が、しかし、何かがおかしい。とてつもない違和感を感じるのはどうしてだろう。
 鍵を抜き取り、佐々木のじいさんへとしっかりと目を向けた瞬間、違和感を感じない方がおかしい状況であることに僕は気がついた。

 いつも灰色のジャージに身を包む佐々木のじいさん。その爺さんが今身にまとっているのは派手な青いロングコート。ご丁寧にフードまでかぶっているその姿は、コートが茶色であったならファンタジー小説に出てくる旅人のようだった。おかしいのはそれだけでなくて。彼は存在感抜群は真っ赤なメッセンジャーバッグを斜め掛けにしていたのだ。

「佐々木さん?」
 佐々木のじいさんらしくない、いや、現代人らしくないその格好に思わずそう声をかけると、佐々木のじいさんであるはずのその人物は扉の鍵穴から鍵を引き抜きながらコチラに顔を向けた。

 違う。佐々木のじいさんじゃない。

 フードの間から見えるその顔は、僕の知っている佐々木のじいさんのものでは無かった。佐々木のじいさんがあんな格好をするわけないか。僕は何故かホッとしたけれど、次の瞬間、それ以上の胸のざわつきが襲い掛かってくる。コイツは一体誰なんだ?どうして佐々木のじいさんの家から出てきたんだ?

 佐々木のじいさんには身内はもう一人もいないと聞いたことがある。だとすると役所や福祉関係?いくら元気だとは言え、じいさんはもう90を超えていたからそう考えるのが普通だろう。しかし、僕の目の前の人物はどれだけ贔屓目に見たところでそういう関係の人間とは思えない。

 まさか泥棒だろうか。じいさんが事件に巻き込まれた?こんな誰にも注目されない町の両手で足りるくらいしか面識のない無害な人間が?事件に?
 ほとんど知られていないこの場所がニュース記事として全世界に発信されている場面を想像した僕は、今まで画像でしか見たことのない場所に住んでいるであろうどこかの誰かに憑依したような、なんとも奇妙な気持ちになった。この人たちも同じように感じていたのだろうか。

 様々な考えを思いめぐらせている僕に向かって、青いその人物はゆっくりにっこりと微笑んだ。その笑顔は僕を現実世界に引き戻しながらも、非現実世界を強く感じさせる。
 その場を離れたいと思いつつも目が離せない。そんな僕に向かってその人物はこう言った。

「あ、こんにちは。今日はいいお天気ですね。山田さんもお出かけ?」

「え?」
 僕は驚いた。だって佐々木さんはこんな格好をするような人間ではないはずだし、それに、僕がフードの中に見た顔はどう考えても佐々木さんの顔では無かったのだから。

「どうかした?」
 何とも言えない顔になっている僕に対して、自称佐々木さんである青い服の人物はますます笑顔を強めながら僕との距離を詰めてきた。

「い、いえ。なんでもありません。はは。いや、今日はホントいいお天気ですよね。あ、そうだ。僕財布を忘れちゃったみたいなんで、じゃぁ」

 僕はそう言い訳をしながら、さりげない風をよそおいながら部屋の鍵を開けた。何かがおかしい。とりあえずこの場所から離れなくては。僕の本能がそう告げている。急げ。急げ。ドアを開けると隙間に身体を滑り込ませるようにして部屋の中に入る。ドアを閉め、鍵をかけるとドッと疲れが出たかのように身体が重くなる。

「佐々木さん、どうなっちゃったんだ?」
 外の人物には聞こえないように僕は口の中で小さくそう呟くと、ドアスコープから外の様子をうかがった。覗き込む目。ガラスに反射した僕の目ではなく、外から中を覗き込む目。これは自称佐々木さんの目だろうか。どうしてこちらを覗き込んでいるんだ?ぐるぐると考えにもならない考えが頭の中を掻きまわす。
 青い。赤い。青い。赤い。……

「山田さん、大丈夫?」
 ドアの向こう側から自称佐々木さんの声が聞こえる。

 目が合っていることは重々承知しているけれど、僕は佐々木さんと目が合っていないふりをする。佐々木さんと目を合わせながら。佐々木さんの目を覗き込みながら。すると佐々木さんの目の中に僕以外の人物が存在していることに気がついた。

 ほら、やっぱり。

 佐々木さんと目を合わせているのは僕じゃない。


良かったらスキ・コメント・フォロー・サポートいただけると嬉しいです。創作の励みになります。