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随筆「ごはん」

仕事で教材を作っていて向田邦子さんの随筆「ごはん」を読んだ。
この作品は戦争や家族とあわせて向田邦子さんが東京大空襲の翌日に食べた家族での昼餐を思い出す、という内容だ。

ふと、私にも印象深い「ごはん」があることを思い出した。

小学6年の冬のこと。
私と、当時小学2年の弟は普段通りの夕食後、いつものように風呂で歌っていた。
その日の曲はアニメ「爆闘宣言ダイガンダー」のオープニング、そのものずばり「爆闘宣言ダイガンダー」であった。
曲が曲だけに全力で歌い上げていたのだが、その声がうるさいと祖父に叱られた、らしい。
「らしい」というのは、私はそこまで叱られた記憶がないからで、おそらく「うるさいぞ」と強めに言われたくらいなのだろう。
弟には甘めだが、私には厳しいことも多い祖父だった。
しかし後から祖母や母に聞いたところだと、その夜の祖父は珍しいくらいに怒っていたということだった。

その翌日が問題の日だった。
起きると家の中が慌ただしかった。
私と弟は普通に朝食を食べて学校へ行こうとした。
行く前に、母から祖父の体調が悪いらしいと聞いた。

放課後、学校に自宅隣のおばさんが迎えに来ていた。
小さい頃はよく可愛がってくれた方で、飼っていた犬の名前であるブンちゃんから、「ブンちゃんおばちゃん」と呼んでいた。
ブンちゃんおばちゃんは離れて暮らしている息子さんはいるものの、普段は一人暮らしの方で、年齢は祖母に近かったと思う。
私が友達と遊ぶことが多くなった小学校入学以降はなかなか家にお邪魔することもなくなっていたが、幼稚園の頃などしょっちゅう遊びに行き、温室で育てている花を見せてもらったり、犬と遊ばせてもらっていた。

そのブンちゃんおばちゃんが学校に来る。こんなことは初めてだった。
ブンちゃんおばちゃんは「おじいちゃんが病気で、お家の人がみんな病院に行っているから頼まれたの」と言い、放課後その足で近所のそば屋、古久家に入って夕食を食べることになった。
我が家は夕食が早い方だったが、その時は放課後16時過ぎなので、それでも随分早い時間だった。
近所ではあるものの入ったことのない店だったので私は少し緊張しつつ、それでもメニューを見て大好物の「もつ煮定食」に即決した。
あまりに早く決めたものだから、ブンちゃんおばちゃんは「もつ煮好きなの?」と聞いて、私は「大好き!」と答えた。

余談だが、群馬には永井食堂という有名なもつ煮の店があり、冬になると家族で日帰りのスキーに行く度に、帰りに寄ってもつ煮をテイクアウトしていた。

ブンちゃんおばちゃんは「私の分のもつ煮も食べて良いから」と言って自分の注文をした。
何を頼んだのか覚えていないが、恐らくそばのセットにもつ煮を付けたのだとは思う。
さすがに自分ももつ煮定食を頼んで、そのもつ煮をそのまま私にくれたわけではないだろう。ご飯と漬物しか残らなくなってしまう。
また、弟の分もうどんか何かを注文し、そこにももつ煮を追加でつけて、それも私にくれると言った。

そうして来たもつ煮の量に私ははじめ興奮し、すぐに困惑した。
何せ小学生の前に3人前のもつ煮が並んだのである。
いくら好物とはいえ、体も大して大きくない私にその量は多すぎた。
しかし、私には出された料理は残してはいけないという矜持があった。
給食も小学3年生以降は残したことはなかったはずだ。
戦争を経験した祖母は、好き嫌い、食事を残すことに対してとても厳格だった。
おかげで今も私は「そこまで好きではない」食べ物はあっても、食べることができないものはない。

そんな私が大好物のもつ煮を食べきれない。
しかも、親との食事ではなく、親しいとは言っても近所のおばちゃんにお金を出してもらっての食事である。
絶対に残したくない、でも食べきれない。
困っていると、ブンちゃんおばちゃんは「残してもいいのよ」と言い、私はしぶしぶ箸を置いた。
私を可愛がってくれているおばちゃんだが、その日は不思議なほど優しかった。

ブンちゃんおばちゃんと弟と、三人で家に帰り、しばらくすると祖父以外の家族、父と母と祖母が帰ってきた。
祖父は脳梗塞だった。

手術をして一命はとりとめたものの長期入院。
その後も遠方の病院に何度もお見舞いに行き、やがて自宅で介護をするようになり5年以上。
私が大学生の頃に亡くなるまで、半身不随、寝たきりのままだった。


ブンちゃんおばちゃんという名前も10年以上ぶりに思い出したくらいだが、「ごはん」という言葉から急にこの日の出来事、あまりに多かったもつ煮が思い出された。

あなたの思い出に残る「ごはん」はなんだろうか。

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新井
レペゼン群馬、新井将司。世界一になる日まで走り続けます。支えてくださる皆さんに感謝。