あの日

こんばんは、きらりんです。今日は3月11日。あの日から11年。大学卒業間際に東北を散策した時の様子を蔵出しします。
ひとつ、地震があった事実を忘れない。ひとつ、自然災害は予想できない。ひとつ、絶対安全な構造物はない。ただし、それではものを作れなくなるので、ある程度の規模の災害に耐えれるように設計されている。ひとつ、被災し亡くなったかたへ慰霊の念と共に災害に対して考える日とすること。

他の都市にもあるだろうが、私は、気仙沼、石巻で津波の記録を見つけた。気仙沼の市街地は気仙沼駅から少しは慣れた場所にある。市役所に、津波の浸水高の記録があった。目分量だが、1.5m程度だろうか。それだけの流体が流れてきたら、人間は一瞬で流されてしまうだろう。「津波が来る前に高いところへ逃げる。」これが大事だ。

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石巻の方は、夜にお散歩した程度なので、正直覚えてない。被災当時の写真等を見ずに訪問したため、何も言われなければ小綺麗に開発された町という印象だった。それでも、街中にひっそりと津波があったことを伝える石碑は建っている。ここも津波の被害があったのだろうと想いを馳せるばかりだった。

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石巻といえば、石ノ森章太郎。石ノ森章太郎といえば、石巻ではないだろうか。夜だったので、何も観光しなかったが、町のいたるところにはオブジェがたっていたので、それなりに楽しめた。今思い返すとなかなかタイトなスケジュールの訪問であったので、機会があればのんびりもう一度訪れたい。

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震災の後、三陸の公共交通機関のあり方大きく変わった。三陸鉄道への移管、BRT転換による鉄道の廃止と震災復旧の折りに大きな変化があった。鉄道時代のインフラをバス専用道として活用すると、バスの小回りにより、利便性・速達性・定時性が向上したように思う。これからの人口減少時代の交通のあり方の1つの例になるだろう。この辺りの話を広げだすとキリがないので、今回はこの辺りにしておく。

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恋し浜は、開業当初から三陸鉄道だった。三陸は津波による被災がひどかったらしい。それでも、町を高台に移転させる等

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忘れてはいけないのは、福島での出来事。今もなお、“元の日常”に戻れてない人がいる。訪問した時はちょうど常磐線が全線復旧した頃だった。

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最後の帰宅困難地域も通った。写真もあるけど、復興したと言い難い状況なので、非公開とさせてください。日常とは、儚いことを改めて痛感した。

近い将来、南海トラフ巨大地震が起こると予想されている。色々な自然災害を教訓に備えて生きていく。それではまた。

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