忘れっぽい私や誰かのための短い読書 17

(・・・)ああそうだ!」と彼はこんどは私にいった、「デュロック少佐、例の僕がきみに話した戦史の教官ね、あれがそうだよ、ぼくらの思想にぴったり同調する、と思われる人は。あの人がそうじゃないといわれたんだったら、それこそおどろいただろうよ、ぼくは、だってあの人はずばぬけて聡明なばかりでなく、急進ソシアリストでフリーメースンだものね。」
私は、サン=ルーからドレフェス派への所信表明を聞かされてつらい思いをする彼の友人たちへの礼儀を顧慮するとともに、それ以上に彼の話の残りに興味をひかれて、隣席の友に、その少佐が戦史の講義でほんとうに美学的な美といえるような論証をやるというのは正しいのかどうかをたずねた。
(略)「作戦が交戦者の一方によって練られているあいだに、その斥候隊の一部が陣地の浜辺で交戦の相手方に壊滅させられた、という話をきみが読むとする、そのとききみがひきだしうる結論のひとつは、すなわち前者の攻撃を失敗させる意図をもって後者が防禦工作をやっていて、前者がその防禦工作を知ろうとしていたということだ。一つの地点にとくにはげしい行動を集中するのは、その地点を占拠したいという目的だけではなく、またそこに相手方をひきとめ、相手方が攻撃に出た他の個所で応戦したくないという目的をも意味する、または一つのフェイント作戦にすぎず、そのようにはげしさを倍加することにより、自己の陣地における配属部隊の削減をかくそうとする意味さえありうる。(これはナポレオン戦争ですでに古典的となっているひとつのフェイント作戦だ。)
(略)
 軍事活動の上につねにたえず作用または反作用をおよぼしている外交活動の研究もまたおろそかにされるべきではない。当時に理解されることなく、外交上無意味な小事件が、敵にとっては、ある援助を期待していたのに、その小事件によってその援助を絶たれたことになり、実際にはその戦略活動の一部分しか実行するにいたらなかった、ということをきみに解きあかす時がやってくるだろう。だから、きみが戦史の読みかたを知る、ということになれば、一般の読者には漠とした話にすぎないものも、きみにとっては合理的な脈絡をもったものになることは、美術に通じた人間にとって絵がそうであるのと同様で、美術館に不案内な見物人が面くらって漠然とした色彩に頭痛を起こしているあいだに、その美術通は、絵の中の人物が身につけているもの、手ににぎっているものが、何であるかの見わけかたを知っているのだ。しかしある種の絵にとって、そのなかの人物が聖杯を手にしていることに注意するだけでは十分ではなく、なぜ画家がその人物の手に聖杯をもたせたか、そのことによって何を象徴しているか、それを知ることが必要であるように、ここにいう軍事作戦は、その直接目的以外にも、野戦を指揮する将軍の精神のなかで、はるかに古い昔の戦闘の型におのずから則られているものであって、それらの昔の戦闘は、新しい戦闘のいわば過去のようなもの、書庫のようなもの、ひろい知識のようなもの、語源のようなもの、貴族階級のようなものなんだよ。
(略)
リヴォリにおける中央突破作戦、それだって、また戦争があれば、くりかえされるだろうよ。『イリアス』とおなじで、それは古くさくなったわけではないのだ。
 マルセル・プルースト 失われた時を求めて

*太字は当方による

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