とりとめない日記・ボナール展続き

*今日は書くつもりなかったんだけど、書くことにした。

ついついいろんな人のノートを読みすぎた。流し込むみたいにあれやこれや気の向くままに読んでいってしまい、なにかしら自分でも書いておかないとバランスが悪いような気分になったかなにかで。

…全然関係ないんだが、旅先とか自分の日常から遠く離れた滞在先なんかで、電車に乗っていた時の記憶というのが、ふっと出てくることがある。しばしば、ある。その電車がホームに乗り入れてドアが開くときだったり、降りるためにボタンを押す瞬間だったり、自分の前にいて同じ駅で降りる誰かの後ろ姿、日の光の差す角度や風のなんとなく吹いている感じ、目に見えるものすべて陽光に浸され、青空さえも少し暖かく、やまぶき色の色味を引きずっている。電車に乗っていた時のある瞬間は実に案外記憶に残っている。おそらくその瞬間に、見えないけれどもなにか私にだけ伝えようとする「宣伝材料」がたくさん埋め込まれている。私が、大事に思ういろんなことが、連想で引き出されてくるように繋がった透明な紐が四方に伸びている感じだ。当然広告のようなわかりやすさは皆無だけど、何の意味もない切れ端のようでいて、それは切れ端ではないんだろうな。)


ボナールの絵を初めて見たころ、それはいつだったか忘れてしまった、おそらく子供の頃か、そうでなくても中学生とかそんなくらいの頃だったのではないか。

私はボナールの絵は嫌いだったのを覚えている。

とはいえボナールの、有名な絵しか見たことなかったのだが。それは、入浴する女性のポートレイト。やっぱりボナールといえばまずは入浴する裸婦というイメージがついていないか。
複雑なボナールの色使いは私には気持ちが悪く、見て快かったりきれいと思えたりしなかった。むしろ正直おえっとくる感じだった。
おかげで苦手な人を避けるようにして、ボナールの画集をすすんで見ることはほぼなかった。

これが、ボナールと仲もよく、同じナビ派の画家で絵の主題や技法も被るヴァイヤールは妙に好きで、よく画集など見ていたのだが。

そのころ知っていた人らが…「ボナールかわいいよね」「かわいい~」などと言い合ってはボナールを愛でていた。

それを聞くたびなんとなく、自分はボナールがわかんないんだな、という変な引け目を感じたりもした。どうも自分色のセンスないのかもしれない?とちょっと冷や冷やしたり。

しかしまあ、ボナール以外にも見る画集なんてたくさんあったし、今以上に気に入ったものばかり何度も見るような性格だった私はボナールのことはあんまり気にしないでいられたし、だから去年ボナールの大回顧展に行くまでは、ほとんど何も知らなかったようなものだった。

その展について去年ほんの少し書いたことがある。(←*リンク先がその以前の日記で、後半部分にボナールについて書いています)これはその続きというか、その時の日記に追加して書きたいことを書いている。

それでボナール展を見てみて、実はボナールはオールラウンダーというべき画家で、風景画から、静物画、裸婦に限らず人物像、室内の群像そして風景と人物の組み合わせ、ちょっと装飾的な寓意画みたいな絵など、様々なジャンルの絵をまんべんなく、よく描いていた。
別に入浴している裸婦だけではなかったし、それぞれの主題の絵がそれぞれに良くて楽しめた。長年、ボナールについて偏った印象で済ませてしまってたんだと思った。

それから、入浴している裸婦のモデルはマルトというボナールが長年一緒に暮らした女性であることが多いが、美術館で読んだ解説によれば、
その時代室内で入浴するということが一種の流行だった、ということもあるようだが、
どうやら精神的に不安定だった様子のマルトさんは、一日に何度も入浴する(水風呂だったようで効果あったのだろう)のが習慣だった。

これは理解できる。とにかく風呂に入ることで感情を洗い流すというか、リセットしてリラックスできる。

それで、ああ、だからだとふと分かったことがあった。

なぜ、かつて、ボナールの入浴している裸婦の絵の、あの風呂の水面を含める裸体の色彩におえっと思ってしまったのか。きっと、ボナールはにじみ出た皮脂の浮かぶ風呂の水に、入浴するひとのこころの苦しみもまた溶け出て混じっている、そんな様子を(狙ってかどうかは知らないが、素直にか、)再現していたからなんだろうなと。

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