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桃青の園

 辞世の句の起源は、はっきりとわかっていない。漢詩や和歌、俳諧といった短詩の形式によって詠まれる。日本では、江戸時代にもっとも盛んになって以来、権力者も詩人も絵描きも、善人も悪人も、皆々世に別れを告げて、消えていった。

 古代ギリシャの叙事詩のように、壮大なテーマと長い形式による詩が流行っていたら、とんでもない。堂々たる語りを終える前に、ぽっくりだ。短詩であるからこそ、完結した言葉を残せた。

 歴史に残る辞世の句の多くは、周到に用意され、代作も多い。死人に口なし、ではない。むしろ、饒舌。辞世の句によって人格は美化され、人生は劇的に彩られる。死をも利用して、自分を言葉で飾ろうとは。辞世の句を残すのも、煩悩ではないか。「あとは、沈黙」とは、なかなかいかないのだ。


 旅に病で夢は枯野をかけ廻る


 松尾芭蕉の辞世の句とされる。される、と濁すのは、本人が辞世の句としていたのか否か、諸説あるからだ。辞世の句であるとするかしないかで、句の意味も変わってくる。辞世の句であるとすれば、「もう旅はできないが、夢では枯野をかけ廻っている」と読める。辞世の句でないとすれば、「今は病だが、治ればまた旅に出よう」と解釈できる。

 この「旅に病で」の句に限らず俳諧では、一つの句に幾通りもの「読み」がありえる。「読み」とは、句の解釈だ。芭蕉は、弟子達の句の一字も直さずに、「読み」を変容させることで句を直すこともあった。

 外山滋比古は、句の作者と読者の関係についてこのように述べている。

 「内容的には受け手に大幅な解釈の自由を許している。(略)受け手としても作者の高さに己を擬するための修養を怠ることができなくなるに違いない。その結果、作者も読者もあいきそって、互いに分かち難い文芸上の高さに達することになる。そして、俳句は通人同士の文芸という性格を次第に濃くしてゆく。」

 芭蕉は、自分のすべての句が辞世の句であると語っていたとも伝えられる。とすれば、「旅に病で」は、文字通り辞世の句である。だが、本来の意味では、辞世の句でないということになる。生み出した句はすべて、世のなかへの別れだったのだろうか。今となっては芭蕉の真意はわからない。

 「手帳の句」といって、あらかじめ手帳に記していたようないかにも趣向をこらした句を、芭蕉は批判している。そんな芭蕉は、「旅に病で」を用意していたか。「手帳の句」が良くないと言っても、実際に手帳に記していたかどうかが問題ではなく、句自体がそう感じられてしまうかどうかが肝心で、芭蕉なら瞬間的に詠んだふうな句を用意できるかもしれない。

 でも、どうだろう。

 師である芭蕉よりも先だった嵐蘭は、当時江戸で認められるようになった自分達を讃える句を詠んだ。芭蕉の号もまだ、桃青の季節。


 桃青の園には一流ふかし

 

 芭蕉の多くの門人達もまた、後に辞世の句を詠んで死んでいった。桃青の園も、今はもう遠い。誰もいない。句だけが残る。

 芭蕉は、弟子にこんなことも言っていた。


 俳諧なども生涯の道の草にしてめんどうなものなり。


 本当に?芭蕉は道草に人生をかけ、何を思って死んだのだろう。


(博士2年 関根ひかり)