粋なお辞儀

中井駅での電車の乗り換えは地下鉄の駅が離れているため、一度外へ出て、橋を渡って川を越える。
通勤や通学での利用が多いため、朝方は都心へ向かう都営大江戸線中井駅へ人が流れ、反対に夕方は西武線中井駅へ人が流れる。この一本道では時間によって人の流れが変わる。

ところが、中年のサラリーマンがいかにも日本人らしいお辞儀をしたあの日は、何かが違った。

夕方ごろ、私は人の流れに逆らって地下鉄の中井駅へ向かっていた。
西武線の中井駅を降りると、いつもの川のような人の流れは途絶え、観光客らしいリュックを背負った年配の女性達が駅前の狭い歩道で、たむろしていた。
「最近は腰だけじゃなくて背中も痛むのよね」
「そうなの〜素敵な髪型ね〜私なんか真っ白よ」
「綺麗に真っ白で素敵よ、もう膝なんてカチンコチン」
噛み合っているようで噛み合っていない年配の集団の会話を聞きつつ、ふと空に目を向けた。夕暮れ時の、色彩豊かではないが、透き通った青い空が落ち着き払って夜を待っていた。空から目を離すと、橋の上では女子中学生2人が、「撮るよ?!」「えー、ちょっと待ってぇ、ムリィ」とカメラの角度と乱れた前髪を直しながら、その空と川を背景に自撮りをし、その瞬間を目に焼き付けるよりも確かな写真データとして保存していた。きっと前から歩いてくる乗り換えの人々も、年配の集団や自撮りをする女子中学生に出会い、その流れを止められるのだろう。

また暫く歩いていると、大江戸線中井駅が見えてきた。しかし、駅前では普段は見ない赤いランプがぐるぐると回りながら周囲を照らしていた。普段通りに駅から出てくる人の流れも、赤いランプに照らされると、まるで駅から逃出てきたかのようにも見えた。駅の入り口の隣にある本屋の前には救急車が一台停まっていて、今まさに担架で救急車に人を乗せる瞬間であった。担架に乗っている人は怪我か病気か、目を凝らしてみるも、オレンジ色の毛布に包まれ、男性か女性か、年齢や症状もはっきりとは分からない。代わりに、お土産の入っているらしい紙袋と鞄を持ったスーツ姿の中年のサラリーマンが担架に寄り添うように歩いていた。担架が無事に救急車に入るのを見届けたサラリーマンは、駅員と思しき制服を着た男性に、お辞儀をした。お疲れ様です、と周りの人にも伝わるサラッと短いお辞儀でありながら、無駄のない、自然で、いかにも日本人らしい間のお辞儀が印象的だった。担架で運ばれていた人はサラリーマンの同僚だろうか、奥さんだろうか。しかし、そのサラリーマンは救急車に乗ることなく、お辞儀を終えると駅の中へと消えていった。駅員はサラリーマンの姿が見えなくなるまで、帽子をとって、ずっとお辞儀を返し続けた。

担架で運ばれた人は、ホームで倒れたのか、はたまた電車の中で具合でも悪くなったのか、と心配しているうちに私は駅の改札についた。改札に着くと私は担架の上の人の心配をやめていた。もし電車で人が倒れたのなら、急病人対応のため電車が遅延しているのではないか。私は急に自分の心配を始め、以前観たテレビのワイドショーの話を思い出した。電車の遅延理由の一位が人身事故である日本では、人身事故と聞くと、会社に遅れる、迷惑だ、電車の遅延が何分なのか、と自分の身の心配ばかりする。情のない寂しい所だと思っていたばかりだったが、改札にICカードをかざした私は、特に遅延のアナウンスが聞こえてこなかった為、安堵した。私も生粋の日本人なのであった。ホームに降りると、あのお辞儀をしていたサラリーマンがいた。しきりに腕時計を確認しているが、焦っている様子はなく、表情は穏やかだった。


関万由子