黒よりも暗い -29-

 昨夜から寒さがどっと来たようだ。特に降雪が凄いらしい。雪国出身である。初雪にあまり心は踊らないが、子供の頃はワクワクしていた。窓を開けたあの光景。天気予報より待ち遠しく朝起きた瞬間窓を開けては初雪を確認していた。そして、とうとう初雪の光景を見た瞬間は言葉では表せないほどの心から込み上げてくるワクワク感が溢れ出ていた。早く外へいきたい。雪の上を歩きたい。あの軋む音を聞きたい。それだけで楽しいのである。他を考えることはない。ただ雪を感じ楽しんでいた。水分を含んだ雪は固め易い。両手で雪をかき集め雪玉を作る。ギュウギュウにする。てきとうに投げてみる。それだけでおもしろい。雪玉を投げる相手がいなくても1人だけでも十分楽しかった。たしかに少し寂しい感覚を持っていた。だが、煌びやかな雪景色の前では大したことではなかった。雪掻きされていない降り積もった所へ飛び込む。顔に雪が飛んでくる。冷たい。でも楽しい。耳もちぎれるように冷たい。いや、痛い。ヒリヒリジリジリする。でも楽しい。この雪景色の中にいるだけで楽しかった。雪を食べてみる。味はない。思ったより美味しくない。でも楽しい。オシッコをしてみる。煙が出てくる。雪の下の土が見えてくる。雪にオシッコの点々ができる。模様のみたいで面白い。吐く息は白い。口から煙を出しているようで楽しい。音がする。雪の上を歩く度にギュ、ギュ、と奏でているみたいだ。楽しい。雪は陽の光に反射してキラキラ輝いている。眩しい。目を細める。時が止まっているようだ。人の気配はない。この雪世界は自分だけのもの、という錯覚に陥る。とても静かだ。風の音だけが微かに聞こえる。たまに強くなる。雪の表面をなぞっていく。風は僅かな雪を連れ去っていく。少し寂しくなる。また歩く。うまく歩けない。積雪が多くなると一歩一歩が大変だ。倒れそうになるのを両手で支える。それでも楽しい。大変だけど楽しいのである。それなのに歩き続ける。頬が痛い。ヒリヒリする。口の淵も痛い。ヒリヒリする。口を開ける度に裂けるようで痛い。それでも楽しい。1人という感覚が無い。孤独という感覚がない。雪と戯れるだけ。それだけである。それだけで楽しい。誰も居ない公園。ブランコにはたくさん雪が積もっている。雪を払う。それでも微かに雪は残っているようだ。少しくらい平気だ。そのまま座る。お尻が冷たくなる。お尻を触る。お尻は濡れている。冷たい。寒い。だが気にしない。冷たいけど冷たくない。それどころじゃない。とにかく楽しい。とにかく動き回る。いつもと違うのである。景色が違う。キラキラと変貌しているのだ。

 今の私はどうだろうか。見える景色は白ではなく黒い。見えると言っても心である。私が思い描く心の中の景色は黒でありとても暗い。どうしてこうなったのだろうか。おそらく「考える」ことを始めてからこうなっていったのだと今では思う。子供の頃は考えない。「感じる」。見て感じる。聞いて感じる。触って感じる。匂って感じる。食べて感じる。考える前に体が動いていた。今までの人生を振り返ると幸せな時期が私にもあった。その時は考えるより感じていた。楽しんでいた。あの頃の雪景色は今と変わらないであろう。陽の光や風も。変わったのは私だけ。私が感じるより考え始めてから世界は変ったようだ。考えると自分以外の世界を遮断してしまうようだ。本人は気付いていない。そして、考えると考えないの境目が分からなくなる。考えるというのは沼と同じだ。いったん入るとなかなか抜け出せない。沼に入っていると気付いたときはもう口元まで沈んでいた。もう少しで死ぬところである。体を動かせば動かすほど沈んでしまうのと同じように、考えれば考えるほど沼にはまっていくのである。助かるには考えを止める。身を委ねてみる。しかし、難しいことが発生する。「後悔」である。今までの自分の不甲斐なさが考えることにガソリンを注ぐように燃えたぎってくるのである。であるから、考えないとこに加え、後悔もしてはいけないのである。長年考え続けてきた人間としてはとても辛い。他の人には理解できことかもしれないが、よく考える人にはわかることだと思われる。考えないことを意識していても、その意識を外した途端に一瞬にして考え始めてしまう。それに気付くまで長い間費やした。外部からの情報でようやく気付き始めたのである。そういった意味では自分に正直になんてあてにならない。自分をコンパスに例えたら、そのコンパスが壊れた状況で使用していたようなものである。壊れているなら修理が必要である。しかし、私のコンパスの構造を知っている人はいない。オーバーホールするのは私がしなければいけない。基本的な技術は外で学ぶ。しかし、修理するのは私自身である。まずは誤作動している私を強制停止しなければならない。もう初老である。考えない動かないというのは恐怖である。ましてや職がない。死への恐怖でいっぱいになる。それをかき消そうと常に考えるのである。だがこれ以上、四六時中考えるているのは無意味であるということを自分自身に叩きつけなければいけない。考えること自体は悪ではない。だがあまりにも考え過ぎているのである。考え過ぎて最早考えることの意味を無くしているのである。長年これに全く気付かなかった。だが、長年していることを止めるのはなかなか難しいことに気付く。本当に強制的にしなければ考えることを止められない。だからとにかく体を動かす。考えない状態になればそれで合格である。欲を言えば感じることをしていみるとかあるが、そんな上級なことは私にはできない。今はとにかく体を動かし体を動かすのである。それだけで良い。これからの人生は絶望だ。しかし今は考えることを止めることに専念する。その積み重ねで今までの人生に少しは変化が見えるかもしれない。私の状況はそれぐらい深海の中に沈み込んでいるのである。まずは浮上するために考えるという重みを外したいと思う。40だろうとまだ人生に希望はある、と信じたい。

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