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傍観者の人生もまあまあ辛い

 私はお店などでお勘定の時には必ず店員の目をみて礼をいうことにしているのだが、おつりとレシートをもらって、お礼をいう段になるといつも目を逸らされる。一瞬合っても1秒ともたない。このことが不思議でたまらなかった。別に相手を非難しているわけでもなし、普通に面と向かってお礼を言いたいだけなのだが、なぜかうまくいかない。一体何が原因なのか。

 しばらく考えてなんとなく出た結論は、私はどうも自分では意識しない間に「圧」を出してしまっているのではないか、ということであった。誤解されると困るが、これはオーラとか威厳とかそういう類のことではない。第一オーラや威厳が滲み出るほど私はこれまで何かをやった実績はない。そうではなく、「圧」なのだ。抽象的にいえば、「出す人の直視を本能的に避けさせる何か」。それを私と会う人間は無意識に嗅ぎ取って避けている。

 実際に私は複数人から「妙な圧迫感がある」に相当する意味のことを言われた経験もある。例えば学生時代にある女の子から「荒野くんって、すごく優しいんだけど、なんか一緒にいると疲れる」と言われたことがある。同じ子から「会話しているっていうよりはインタビューされているみたい」「常に分析している」というようなことも言われた。

 つまり「圧」とは、人をジャッジする意識から生まれてくるものなのだと思う。あまりにも無意識すぎて日頃は気がつかないが、私のエネルギーは、常に会う人会う人を分析し、類型化することに使われている。分析の材料になる情報を集めるために、人と話す時には、「この人は日頃どんなことを考えているのか」「どんな本を読んでいるのか」「どんな信条を持っているのか」といった部分にばかり視線が行き、冗談やユーモア、軽いノリでダラダラと話すということには全く関心が向かない。

 これは相手からすると、自分の発言の一つ一つ、一挙一投足を監視されているということである。端的にいえば、非常に疲れる。私が相手の立場だったらそう思っちゃう。私でも私のような人間とは話したくない。私のような人間と会話をすると、分析と類型化によって、瞬時に有象無象の中の1人、大量のデータの中の一つとして処理される感覚におちいるからだ。

 例えば自分の本音をいえば、表面上は「いいっすね~」と言いながら胸の内で「ああこういうタイプの人は、こういうことを言うのか」とデータベース化される。目標を言っても「素晴らしい目標っすね」という言葉の裏で「こういう目標を持つということは、タイプ的にはこういうパーソナリティなんだな」と判断される。いわば対等な人間同士のコミュニケーションというよりは、医者と患者の間のカウンセリングに近い。本質的に上から目線なのだ。

 なぜ会話が他者のジャッジになってしまうのか。それには私に性格的な特質も関係しているのかもしれないが、主にはプレイヤーというよりは傍観者的なスタンスで過ごす時間が多かったことに起因しているのかもしれない。「傍観者的」とは、本を読むのは好きだが生身の人間と話すのは煩わしく、人に提案するのは好きだが自分で実行するのはケッタイで、思ったり考えるのは好きだが実際に手を動かして何かを作るのは面倒臭い性質のことである。

 物心ついた時から私は「傍観者」的で、何かに打ち込んだりしている人をぼうっと遠くから眺めていることの方が多かった。

 一番印象的なのが実の姉との違いである。姉は結構めちゃくちゃな人で、中学受験で名古屋有数のお嬢様学校に入ったもののグレて家出し、暴走族の副総長としてときどき集団リンチに合いながらも名古屋の街を爆走していたが、高校生の頃に暴力事件に関わった罪で少年院にぶち込まれ、出所してからは高校を三つぐらい転々とした後に21歳ぐらいで大学に裏口入学し、5年かけて卒業した後に就職した会社を一瞬で退職してから水商売で売れっ子になり、そこで出会った大手石油会社の常務と結婚して2人の娘をもうけ、結果的に現在幸せに暮らしている。いわば全身で人生を生きている「全身プレイヤー」の人なのである。

 はちゃめちゃにやりつつも、なんだかんだ楽しそうに生きている姉のような人間を見ていると、「迷惑」ってなんだろうかと考えてしまう。私はあんまり他人に迷惑をかけたりしてこなかったが、その代わり自らでは何一つ手を動かさない傍観者になってしまった。対して、十代からめちゃくちゃに生きて両親に多大なる迷惑をかけてきた姉は、「まじ」を「まぢ」と書くし、平気で他人の悪口を言うが、見ていて清々しくはあるのだ。姉と話すと、姉が考えていることや感じていることが、明確に伝わってくる。だから私は姉に対して警戒心は抱かないし、圧も感じない。この「抜けの良さ」が、信頼の第一歩なのかなという気はする。なんだかとりとめもない話になってしまった。

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