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地獄を見ている

(2019年7月7日に「noteのcakes」アカウントで書いたものを転載)

 年々、他人との交際に対して不具になっていっている気がする。嫌な感覚だ。他人に踏み込まれることに安易さを感じるし、逆もまたしかり。そのくせ、妙に誰かと話したくなって、見ず知らずの人間に話しかける度胸など微塵も持ち合わせていないのに、暗くてジメジメした布団の中から街に這い出て、夜遅くまで彷徨してみたりしている。開け放つこともできないし、かと言って閉鎖していることもままならない。そんな人間にとっての行き場所は、あるか。居場所は、あるか。あるとすれば、それはどこか。

 みんな、同じような苦境の只中に生きているのか、それすらもわからない。自分の感情は数時間ごとにグルリと切り替わってしまう。興奮したかと思えば、沈殿する。逆に暗鬱な気分が、街中にある看板一つを通り過ぎた瞬間にパッと晴れ渡ったりする。無人のビルの屋上のメリーゴーランドに乗っている感じ。それはまるでマジックミラーみたいに内と外で景色が変わる場所だ。遠くからはゆっくりと動いているように見えるが、中からはとてつもない速さで回っているように見える。で、自分以外、誰も遊んでいない。誰もいないと、つまらないから抜け出ようとする。しかし、何しろ高速で動いている遊具だからそれも一向に叶わない。どうにか取りつこうとした矢先に、出口は残像になって両手からするりと逃げ出してしまう。

 無人のメリーゴーランドの中で戸惑っているうちに、自分はどんどん老いていってしまうんじゃないかと怖くなる。時は金なり。そんなこと、言われなくても分かっている。自分がこれまで無駄に過ごしてきた時間の中に、どこか別の場所へ抜け出すためのヒントがたくさん隠されていたであろうことも知っている。でも、手を出さなかった。後回しにしていた有象無象の課題が全部合体して自分の体にのしかかってきている気分だ。光明が見えない。走りながら考えることができる器用な人間になりたいのに、自分は考えながら歩いている。いや、考えてさえいない。途方もない現実にただ呆然としながら、解決を後回しにしてぼんやりしている。時々、一歩踏み出して見て、変化の兆しを見せた景色に対して恐怖して、また元の地点に戻る。机の上で設計図を書いて、すぐに破り捨ててしまう。そんなことを何回も繰り返している。

 そんな状況を変えるきっかけになるのは、他者に違いないとどこかで確信しているはずなのに、やっぱり踏み込むのを恐れる自分がいる。この感覚を共有できる知人もいないから、一人でこねくり回している。こねくり回している内に、それはこの世のものとは思えないぐらいに醜悪で異形な人工物になっている。自然に形成されていくような理にかなったものではない、という意味で「人工」的なものだ。無痛で、隅々まで自分で操作できる世界は居心地がいいけれども、張り合いがない。張り合いがない、という日々が少しずつ蓄積されていくと、やがてのっぴきならない痛みになっている。それは黒船と呼んでいいものでもあるけれども、そうなってから抜け出そうとするのが難しい。結果、地獄になる。地獄めぐりの模様を時々noteに書いてみて、どんな物好きか知らないけど読んでくれる人がいると、束の間癒される。でも、その安寧は1~2週間しか続かない。結果、地獄。無限ループっってやつ。

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