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赤い糸の話


「おい、のろのろ働いてんじゃねえよ!」
 自分よりも一回りは年下の若い社員に怒鳴られて、玄は思わず「すみません……」と謝った。ここは都内のどこにでもある工事作業の現場。黒井玄は数年前から日雇い労働者として、首都のあちこちを転々としながら働いている。四十歳に差し掛かった中年男にとって、上司に怒鳴られながらの工事現場での肉体労働はやはり過酷なものがある。しかし正規社員としての就職適齢期を逃した玄のような男にとって、生活の糧を得るための仕事を得られるような場所はもはやそう多くなかった。
「今日もお疲れさん。はいこれ、今日の日当」
「ありがとうございます」
 現場監督から手渡された茶封筒を受け取って、帰路につく。途中、駅前の焼き鳥屋が目に入り、瓶ビールでも一杯あおりたい衝動に駆られるがぐっと堪える。こんなところでお金を使っている場合では、ないのだ。

 自宅である木造二階建てアパートの一室に帰った玄はやっとと一息をついた。彼にとって心の底からリラックスできる場所は世界でここ一つしかなかった。しばらくベッドでぼうっと横になっていたが、やがて起き上がると、玄は鞄から先ほどもらってきた茶封筒を取り出して中身を調べる。
「一万……二千円。これで合計119万と少し。ということは、あと31万円か」
 玄は数年前から日雇い労働で貯めたお金をできるだけ使わずに貯めることにしていた。目標金額は150万。そこまで貯めることができたら、玄はこの場所から遠く離れた田舎へ行こうと考えていた。田舎へ行き、古い民家を借りて、小作農として細々と静かに余生を暮らす。それが目下の彼の願いであった。目標というにはあまりにスケールの小さいその目標は、もはや夢も希望も見つからない玄のような中年男にとって、唯一残された人生の清涼剤ともいうべきものであった。
 玄はお金を金庫代わりのお菓子の箱に移し替えると、夕食の準備を始めた。週に一度作り置きしておく冷やご飯を電子レンジに放り込み、スーパーであらかじめ買い込んでおいた椎茸ともやしで味噌汁を作る。食べ終わると、玄は近所のコインシャワーを浴びてすぐに布団に入った。明日も現場作業が入っているのだ。布団に潜り込み、目を閉じていると、薄い壁を通して隣の部屋の住人が帰ってくる物音が聞こえ、玄は小さく舌打ちをした。ときどき廊下ですれ違うその住人は大学生ぐらいの若い男で、ときどき恋人らしき女をアパートに連れ込んでくる。しばらく笑い声や囁き声が聞こえたと思ったら、ゴソゴソ、という音ともに隣の部屋から女の喘ぎ声が聞こえてきた。玄は気にしまい、気にしまいと自分にいい聞かせながら布団の中に自分の耳を埋めるように潜った。隣の男は、今まさに女の柔らかな乳房に顔を埋めていることだろう。その映像は拭いさろうとすればするほど頭にこびりつき、未だ恋愛経験の一度もない玄の股間を否が応でも硬化させる。仕方なく手淫で処理してなんとか眠りについた。


 翌日。玄はまだ夜も明けきらないうちに目を覚ました。今日の現場は、集合時間がいつもに増して早かった。顔を洗おうとして流しにおいた手鏡の前に立つと、玄は奇妙なことに気がついた。自分の左手の小指の先から赤い一筋の糸が一直線にどこかへ向かって伸びているのだ。小指の第二関節あたりに巻き付いたその糸は、暁光に照らされてほんのりと淡い輝きを放っていた。玄は自分の正気を疑った。それはどこからどう見ても、歌謡曲や詩で頻繁にうたわれるあの「運命の赤い糸」のようだったからだ。試しに右手でその糸を触ろうとしてみたが、どうやら糸は赤外線のような性質になっているようで、触ろうとしてもすり抜けてしまう。しかしその先は確かにどこかに結びついているのだ。その時、携帯電話が震えた。通話を押すと、今日の現場のリーダーである。
「黒井さん? もう集合時間過ぎてますけど、今どこいます?」
「す、すみません。ちょっとお腹が痛くて……すぐに向かいます!」
 とにかく、今はこの不可解な現象のことは考えないようにしよう。玄はそう決めて、いそいそと出かける支度を始めた。

「遅刻には気をつけてね。はい、これ今日の日当。おつかれ」
「ありがとうございます。お疲れ様です」
 玄はなんとかその日の現場を終え、不可解な気持ちで帰路についた。現場にいた作業員で、玄の赤い糸の存在に気づいたものはいなかったのだ。と、すればこの糸はやはり玄にしか見えないものなのだろうか。乗り換えの新宿駅のホームで電車を待つ間、玄は左手を高くかかげてみた。夕方の帰宅ラッシュということもあって、ホームは混雑していたが、糸の存在に気がついた様子の者は誰一人として見当たらない。もしこの糸の先に運命の相手がいるとしても、その人が東京にいるかどうかもわからない。それどころか日本にいるのかも定かではない。そう考えると、この糸の一方を探すことは実に途方もない作業に思われた。玄は左手の先から伸びる糸の先をずっと見通してみた。糸は、東京の街を超えた遥か遠く、地平線の向こうまで続いて……いなかった。玄は驚愕した。糸は明らかに下に傾きながら、プラットホームの窓を越えて新宿のバスセンターで止まっていた。
 運命の相手が、今まさに自分の近くにいる。そう分かった瞬間玄の心臓は高鳴り、腹の底から奇妙なくすぐったさが込み上げてきた。急いで改札に戻り、切符を払い戻して駅を飛び出す。糸は相変わらずバスセンターから伸びている。吐きそうになりながら道路を渡り、バスセンターの階段を駆け上がった。3階に上がってから、糸を見ると、糸はちょうど真上に伸びていた。4階か。玄はまた階段を駆け上がった。糸はいくつかの発着所があるロータリーの一角、一台の高速バスの中へ伸びている。玄は鞄を投げ捨て、そのバスに向かって全速力で走っていった。周りが訝しむのも気にならなかった。バスに近づくにつれて糸はどんどん張力を失っていく。
 その時だった。玄は「あ!」と短い叫び声を上げた。バスの扉が閉まり、走り出したのだ。
「あ、ちょっと待って!」
 玄の叫びも虚しく、バスはそのまま玄を置いて行ってしまった。一気に全身の力が抜け、玄はその場に座り込んでしまった。
「お兄さん、大丈夫? 乗り逃したのかい?」
 近くでバスを待っていた老婦人が玄を心配してくれた。
「……ありがとうございます。でも大丈夫です」
 なんとか声を絞り出して、玄は立ち上がった。

 部屋に帰った玄は、ろくに手も洗わずにお菓子箱をひっくり返すと、これまで貯めていたお金をかき集め始めた。あの後、待合所で確かめてみると、玄が逃したバスの行き先はどうやら大阪らしかった。すんでのところで運命の相手を逃した玄の頭の中からは、もはやお金を貯めて田舎に引っ越す計画など消えてしまっていた。いくらかかったとしても、見つけ出してやる。


 数日後。大阪の伊丹空港の待合所で、玄は抜け殻のようになってソファに体を沈めていた。だらりと垂らした左手の小指の先から伸びた糸は、今しがた離陸した飛行機に向かって一直線に伸びている。それは中国行きの飛行機であった。玄は、またも運命の相手に出会いそこなったのだ。これにはさすがに消沈した。しかも相手の行き先は、玄が行ったこともない途方もなく広大な大陸である。
「くそっ! くそっ!」と、玄は一人で悪態をついた。
 その日はさすがに酔いで嫌な思いを拭い去りたくなった玄は、滞在しているホテルのそばのハブに入った。1パイントサイズのビールを2つ注文し、席に着くや否や一杯目を飲み干してしまった。
「お兄さん、なんかあったの? 随分荒々しい飲みっぷりね」
 突然隣から声をかけられた。見ると、玄と同い年か少し年上ぐらいの中年女性がクオーターサイズのビールを片手に頬杖をついて玄を見つめていた。
「まあ……なんか、自分がつくづく嫌になっちゃって」と玄は答えた。ごまかしのない気持ちではある。
「自分のことを好きな人間なんて、ろくな奴じゃないわ。大阪へは仕事か何かで? イントネーション的にこの土地の人じゃなさそうだけど」と女は言った。玄は内心(もうほっといてくれよ)と思いつつ、
「まあ、そんなところです」と答えた。
 それからも女はことあるごとに玄に話しかけてきた。女の名前は白田紙子と言い、やはり彼女も旅行で大阪へきているとのことだった。仕事は看護婦で、病院で働いて貯めたお金を使って、方々を旅行するのが生きがいだという。
「そんな暮らし方してたら、恋人もなかなか見つからないんじゃないですか?」
 結婚指輪の付いていない紙子の左手を見ながら、玄は聞いた。すると紙子はふふと笑って、
「いいのよ。私にはちゃんと約束した人がいるから」と言った。
「それって許嫁ってことですか?」
「違う……いや、まあでもそんなところかもしれないわね」
 そう言ってから紙子はうっとりとした顔つきになり、左手を顔の高さまで持ってきて見つめた、特に何かがついているわけではない小指をぴんと立てながら。
「もしかして、ついてます? 糸」とおそるおそる玄が聞くと、紙子はびっくりして玄の方を見た。
「なんで分かったの!? もしかして見えるの?」
「いや、あなたのは見えないけど……」と言って、玄も自分の左手の小指をぴんと立てて紙子の顔の前で揺らしてみせた。

「もうどれぐらい探してるんですか?」
 その日七杯目のビールを空にしながら、玄が紙子に尋ねた。
「そうねえ、もう三年ぐらいになるかしら」と、これまた五杯目のグラスを傾けながら紙子が言う。
「あたし昔は普通のO Lやってたのよ。でもある日、突然糸が見えるようになって、一度きりの人生なんだからどうせなら運命の相手と一緒になりたいなと思って、どこでも働くことができて長期旅行にも行ける看護婦になったの」
「そこまでして、まだ見つからず?」
「見つからないわあ。本当にあちこち巡ったのよ。国内は東京、北海道、沖縄、大阪でしょ。それからシンガポール、ドイツ、オーストラリア。お相手の男、職業柄なのか頻繁にあちこち出かけるみたいで」
 俺の相手と同じだ、と玄は思った。東京、大阪、そして中国。相手は出張が多い仕事をしているのだろうか。それとも、今がたまたまバカンスなのだろうか。そもそも日本人なのか。
「でもいつまででも探すつもりよ。あなたはどうするの?」紙子がいう。
「僕もどうせなら、とことん探し尽くしてやりますよ」玄が答えた。お互い戦友を見つけた気持ちで、その晩二人は飲み明かし、連絡先を交換して別れた。

「おい紙子! また家の門が開きっぱなしだぞ!」
 新聞を片手に玄が台所に向かって叫ぶと、紙子の「はいはい」という声が応じた。防犯カメラ越しに紙子が門を閉めるのを確かめると、玄は一度は外した老眼鏡をかけ直し新聞に戻ろうとしたが、止めてまた老眼鏡を外し、宙を見つめた。すっかり乾燥し、しわくちゃになった左手の先から鮮やかな赤い糸がローン完済まであと五年の一軒家の壁を突き抜け、どこかへ伸びてゆく。今年七十歳になる玄は、その行先について束の間思いを馳せかけたが、「くだらん」と呟いてまた新聞を開いた。
 そこにいましがた門を閉めてきたばかりの紙子がやってきた。その髪の毛は真っ白である。
「玄くん! 暇なら料理運ぶの手伝ってよ。もうこの家あたしたちしか住んでないのよ」
「暇なんかじゃない。世相を知り、若者にしかるべきアドバイスを授けるのが後期高齢者の使命だ」
「しがない元飲食店経営者の話なんか、誰が聞くのよ」と紙子はぶつぶつと呟きながら、また台所に戻っていく。
 玄が紙子と出会ってからもうじき三十年余りが経つ。いや、二人が一緒になってからは二十五年余りか。二十五年余り前のあの日、玄は疲れきった表情であの木造アパートの部屋に寝転んでいた。電気も点いていない真っ暗な部屋の中をすっとどこかへ伸びてゆく赤い糸を見つめながら、玄は絶望に打ちひしがれていた。紙子と出会った夜の後、すぐに玄は中国に渡り、広大な国土を延々と巡りつづけたものの、結局運命の相手がみつかることはなかった。そしてついに移住資金を使い果たし、また日雇い労働で旅行資金を捻出しては赤い糸の先を探して世界中を巡ったが、結局運命の相手を捕まえることはできず、電気と水道を止められた部屋の中で途方にくれていた。
 そこに一通の電話が来る。相手は紙子だった。紙子と玄は大阪のハブで出会ってからも定期的に顔を合わせ、時に一緒に旅をしてお互いの運命の相手を探したりしたものの、紙子もやはり運命の相手を見つけることができずにいた。そんな紙子から久しぶりに連絡が来たのだ。
「もしもし、黒井くん? 久しぶり」
「一年ぶりだね、白田さん。どうしたの?」
「うん、あのね……糸が、糸が消えちゃったの!」
 そう言うと、電話の向こうで紙子は啜り泣き始めた。「糸が消えることはあるのか。あるとしたどれはどういう意味か」。それが紙子と玄が顔を合わせた時に必ず話し合う話題だった。二人の間ででた結論は……運命の相手の「死」。
「俺たち、もう一緒にならないか」玄は自分でもびっくりするくらい冷静に紙子に語りかけた。
「俺の赤い糸はまだ消えてない。このまま身を削りながら相手を探したら、もしかしたら見つかるかもしれない……でも、もうここらで切り上げてもいいと思うんだ。会ったこともない運命の相手に焦がれ続けるのは」
 それから色々なことがあった。玄と紙子は数年かけて貯めたお金で飲食店を開業し、なんとか商売を軌道にのせた。そして紙子はかなり遅い年齢で玄との間の娘を出産した。娘は今大学生になり、一人暮らしをしている。
「紙子、夕食前にちょっと散歩しないか?」
 玄と紙子は手をつないで外に出た。夕暮れに照らされた道を杖をつきながら住宅の立ち並ぶ静かな道を玄は歩く。
「いろいろな場所に行ったなあ、紙子」玄が言った。
「本当ね。あの数年の間に一生分の旅をしたわ」紙子が答える。
「一緒になってからは、俺たち商売と子育てにつきっきりで、国内旅行もままならなかったからなあ。またそのうち行ってみるか」
「そうね。それもいいわ」
 その時だった。玄はあることに気づいた。玄の左手に結ばれた赤い糸の張力がゆるんでいくのだ。玄は顔を上げて道の向こうを見た。着物姿の老婦人が日傘をさして歩いてくる。その左手の小指には、赤い糸。玄たちと老婦人が近づくにつれて、赤い糸が地面に垂れ落ちてゆく。まさにすれ違わんとするその瞬間、玄は帽子をとって老婦人に会釈をした。老婦人は軽く頭を下げると、道を曲がって見えなくなった。
「知り合い?」
「いや……人違いだった」玄は微笑んで、紙子の手を掴んだ。

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