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僕の叔父さん

(2020年4月18日に「noteのcakes」アカウントに書いたものを転載)

 cakesのインターンをしていた時に仕事を教えてもらっていた二宮なゆみさんがいつかのnoteの記事で「親戚に必ず一人はいるやべえ奴予備軍」について書いていた。それを読んで、「ははあ」と深く一人頷いたのを覚えている。それは、僕の親戚にも「やべえ」人がしっかり一人存在していたからである。俳優をやっている母方の叔父さんがそれである。

 「叔父さんは、舞台の仕事を中心に、年一本ぐらいドラマや映画にちょい役で出ている人であるらしい」。そう気づいたのは僕が小学生の頃だった。

 その頃、上戸彩が主演していた「エースを狙え!」、井上真央主演の「花より団子」にちょこっと出ているのを見て、「うわ、俺のおじさんは日本中に放送されるような作品にもお呼びがかかる、名うての役者なんだなあ」と少し嬉しくなったのを覚えている。他にも、youtubeで昔の「アンビリバボー」(まだ心霊特集をやっていた頃)を観ていたら、突然再現VTRに登場して驚いたこともある。

 その権威が多少凋落してしまったように思える現在ですら、「TVに出ている」というと何だかすごいことのように聞こえるのだ。いわんや昔をや。叔父さんは少年時代の僕のヒーローの一人だった。週5日、スーツを着て会社に出て働くような「堅い」人間ではないけれど、そのかわり日本中の撮影現場をフットワーク軽く駆け巡りながらスクリーンからスクリーンへ刹那の生死を繰り返す不死身の自由人なのだ。

 一体どうやって暮らしているのか。数年に一度しか会えず、とにかく謎の多い叔父さんは、僕の中ではだいたい同じ間隔で開催されるオリンピックよりもはるかに大きなイベントになっていた。

 それぐらいレアな存在だと、同じ人間であっても生態が分かりにくくなるものだ。いつ寝て、いつ起きているのか。何食っているのか。恋人はいるのかいないのか。最近はどんな作品に出ているのか。うんこはちゃんと毎日出ているのか。

 インターネッツを覚えた僕は、時々叔父さんについてググるようになった。名前(芸名)を打ち込んでみると、トップに叔父さんのブログが出てきた。ブログはほぼ毎日更新されている。間隔は空いても1、2日ぐらいである。叔父さんは俳優仕事の傍ら、SNSでも積極的に発信しているのだ。なんたるハードワーク。おそらく「No pain, No gain」を地で行く男なのだろう。

 しかし、ブログ記事をスクロールしていくうち、僕は一つの事実に気づいた。叔父さんの書いた膨大な記事は、ほぼ全て「誰かと飲んだ話」か「飯ネタ」か「登山」で占められているのだ。

 叔父さんは猛烈に遊んでいた。役者って、そんなに稼げるのか。こんなに遊べて、TVにも出られて、羨ましい。僕の中で叔父さんは一段と輝きを増した。まだ僕が中学三年生ぐらいの頃の話。

***

 中高と大きくなるにしたがって、僕は母とはあまり話をしなくなっていたけれど、叔父さんのことについてとなると別だった。

 母が祖母との電話で叔父さんについて話しているのを聞くたび、「今、どんな話していたの? 叔父さん、最近元気?」としつこく尋ねたものである。しかし不思議にも、母は叔父さんについてはあまり話したがらなかった。それどころか、祖母も祖父も饒舌な叔母さんも、叔父さんについてはやっぱり口を閉ざした。

 それまで滝から水がこぼれ落ちるようにしゃべりまくっていた人間が、自分の家族の、それも特定の人物に話が及びそうになると、途端に口を閉ざしてしまう場面にこれまで何度か遭遇したことがある。僕の狭い経験では、そうした不自然な沈黙は、話題の人物があまり幸せではない方法ですでに故人となっているとか、話者たちにとってその人物について話すことがあまり幸福を生まない時に限って生まれていた。この場合は後者のケース。

 「一族の恥」

 僕の母は、ときどき叔父さんのことをそう呼ぶ。僕が自分の人生においていつまでも迷走状態(今でも)にあり、そのことについて母と口論をしている時には、母は決まって叔父さんの例を引き合いに出す。叔父さんの人生を、僕の父や、自分の他の兄弟の話と比較して、相対的に叔父さんがどれだけ無責任な生を生きているか、どれだけ周りの家族に迷惑を掛けているかを苦い顔で語るのだ。

 叔父さんが実はあんまり売れない役者だということをうっすらと理解するようになったのは高校生の頃だ。ブログネタに仕事のことが少なかったのは、そもそも仕事が少ないからだった。肉体が若く、健康なうちは本業で稼げなくても、アルバイトをして生活費を稼いでいける。

 しかし、悪いことに僕が高校2年生の頃、叔父さんは病にかかってしまった。

 命の存続にも影響する重い病で、叔父さんは1~2年の入通院生活を余儀なくされ、その間は本業も副業もストップせざるを得なかった。

 その頃、僕は全寮制の進学校に入っていたのだが、夜間に母と電話すると叔父さんの話題が出ることが多くなった。聞けば、決まって東京の病院に見舞いに行ってきたのだと言う。母は長期間の入院生活ですっかり弱り切った叔父さんの姿について涙まじりに語り、最後はいつもこう結んだ。

「あんた、叔父さんみたいになっちゃダメよ」
「あんた、このままだと叔父さんみたいになっちゃうよ」

母は、今でも僕が道を踏み外すと、そう言う。

「叔父さんみたいになる」とは、

①せっかく国立大学で専門的な学問を修め、大企業で手堅い職業に就いたに  も関わらず、
②「俳優」という華やかな世界に夢(幻想)を見出し、
③脱サラして上京したはいいものの、
④鳴かず飛ばずのままで歳をとってしまい、
⑤安定した収入源を持たないまま働き盛りを過ぎ、
⑥あげく重い病を患い、
⑦最後の望みだった「俳優」すらも半ば諦めざるを得なくなる。

という、世に存在するあらゆる「夢を追い、夢に敗れた者たち」のエピソードを片っ端からかき集めて粉状になるまで砕いた上、水・塩・重曹・片栗粉を使って練り上げ、丹念に揉み込みと手打ちを行った末に薄く引き伸ばして麺状に切り刻み、新宿歌舞伎町の裏寂れた一角で夜12時から朝の7時頃まで、夜を徘徊するホスト・ホステス、フリーター、フリーランサー、文筆業者、ゲイバー経営者、ヤクザ、チンピラたちを相手に営業している定食屋で、顔に傷跡がある寡黙な老店主がラーメンにして出していそうな「哀愁と哀切」の七段活用を実人生に強いることだ。

 叔父さんの人生のコース取りは、中小企業経営者・医者・教師が跋扈する我が一族の中ではなるほど確かにギャンブル性に富んでおり、その上不運なことに、叔父さんはほとんどの局面でババを引いて、今に流れ着いているのだった。少なくとも、僕にはそう見えた。そして他の親戚も、同じように思っているようだった。叔父さんの不運さにかこつけて、安全地帯にいる自分の幸福を喜んでいるように見えた。

 僕の父が叔父さんについて話す時ですらも、そうだった。彼の尊厳をいささかも傷つけないように慎重に言葉を選びながら語る父の口調は、最終的に自分の生の美化に漂着しようとしているように聞こえた。

 ふと疑問に思うのだが、叔父さんについて語る親戚や父の言葉を、叔父さんの人生の影を強める意味合いでしか受け取ることができない僕って、一体何なのだろう。叔父さんのことを勝手気ままに書き連ね、不特定多数の他人に晒す僕って、一体何なのだろう。






ま、そうは言っても書いちゃうんですけどね。

***

 病の治療に成功し、退院した叔父さんは、程なくして役者活動を再開したようだった。けれど、相変わらず仕事は少なく、時々祖母に仕送りを送ってもらいながら東京で暮らしているようだ。

 僕は、今でも時々叔父さんのHPを見る。相変わらず大きな役とは言えないけれど、叔父さんは今でも年に1,2本はメジャー映画の端役をこなしているようだ。嬉しい。けれど、だからと言って、わざわざ借りて観るようなことはしない。あくまで、「偶然」にスクリーン上の叔父さんを見つけること。こっちの方がずっと嬉しいのである。

***

 大学を卒業する間際、叔父さんと二人で、池袋で呑んだことがあった。昭和の香りが色濃く残る、和風の小料理屋といった風情の店だった。叔父さんは日本酒を呑みながら、自分の来し方や、俳優を志した動機について僕に語った。僕はその頃(今も)将来何をやりたいかが今イチはっきりせず、それ自体は決して大したことではないはずのに、さも人生の一大事のように、真面目に見せることにかけては一流の重々しい口調で叔父さんに語った。

 叔父さんは、多分自虐的に「俺にアドバイスされても、逆に困ると思うけど、」と前置きをした上で、ポツンと一言、

「叔父さんはいつだって〇〇(筆者本名)くんの味方だよ」

と言った。

 お会計は、全部叔父さんが支払った。僕は叔父さんに「ご馳走様です」と言い、胸の中で遠く長崎で暮らす祖母に向けて「ご馳走様です」と念じた。

 店を出ると、叔父さんは「ちょっと早いけど……」と言いながら懐からお年玉袋を取り出した。「〇〇(筆者本名)くんへ」と変に綺麗な字で書かれている、緑色の封筒である。僕は、胸の中で遠く長崎に暮らす祖母に「かたじけない」と念じながら、叔父さんに「ありがとう」と言って受け取った。

 叔父さんは、冗談めかした口調で

「ま、いつかは〇〇(筆者本名)くんに養ってもらわなくちゃならないからね」

と言って、気恥ずかしさを押し隠す。

その言葉を、僕は、

「いやいや、そんなそんな……」

と救いようのないほど下手に受け流した。

そのあと、叔父さんは僕を軽くハグし、「またね」と言って夜の池袋に消えていった。

***

 この池袋の夜以来、叔父さんとは会っていない。ちょうど2年ほどになる。僕はその間、留年し、就職に失敗し、やっとこさ入った会社を短期間で離職し、ちょっと自分でも擁護のしようがないほどに間の抜けた人生を送っている。

 叔父さんと最後に会ったあの夜のことが気になり、叔父さんのブログを探してみたことがある。叔父さんは、僕と話して、どんなことを思ったのだろうか。入院中もブログ更新を欠かさなかった叔父さんのことだ。きっと書いていないはずはない。

 案の定、叔父さんはあの夜のことについて書いていた。けれど、僕が割と真面目に話した将来のことについては一切触れていなかった。では、何について書かれていたかと言うと、お年玉である。

 叔父さんによると、お年玉を受け取る前と受け取った後で、僕の叔父さんに対する呼び方が「××(呼び捨て)」→「××叔父さん(敬称)」に変わったと言うのである。その話をユーモアたっぷりに書き連ね、「複雑な心境になりました」と結ばれた記事を読み終わった。「うっせえ、バーカ」って感じ。

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