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我が家の犬が死にそうだ

(2021年3月13日に「noteのcakes」アカウントで書いたものを転載)

 実家で飼っている犬が、今年で15歳になる。人間でいうと大体80歳ほど。癌などの重病を患いこそはしないが、定期的に膵炎にかかり、歳を重ねるごとにその頻度は多くなっているので、動物病院に連れていく機会も増えた。

 死の香りがほんのりと色濃くなっているこのメスの後期高齢犬は、室内犬なので、生活圏は非常に狭い。日常の生活の99%は実家の2階の廊下とケージの往来、それから父親が仕事から帰ってきたときには、父の書斎でのうたた寝に費やされる。家の外に出る機会といえば、母親の腕に抱えられて近所を散歩する時と、定期カットと健康状態の定期診察のために動物病院へ行く時のみである。大事に育ててきたつもりなのだが、見ようによっては生き地獄である。もし輪廻転生というものが本当にあったとして、わたしが死んだ後、神的な何者かが私の今生での行いを仔細に選考し、「前世のお前は小学生から中学生の間に二回の万引きを行い、好きな女に怪文書形式のラブレターを送りつけたり、その他概ね特筆に値しないしょうもない生涯を送っていたから、多分来世ではそんなに旨味のある生命に生まれ変われない。間違っても、外資系コンサルとか、カリスマスタイリストとかにはなれないし、今のところガンジス川に溺死体として分解されるまで浮かんでいるか、デヴィ・スカルノらへんが飼っているプードルにしかなれないけど、どうする?」と尋ねてきたとしたら、溺死体の生き方を選びたいと思う。たとえそこが、スカルノ家の大豪邸だったとしても、屋内で一生の大半を終えたくない。

 京都で生まれ、生まれてすぐに名古屋へ車で連れ帰ってきた。家族旅行に連れていった覚えはなく、そもそも犬を飼い始めてから家族総出の旅行にも行かなくなったので、つまり市外や県外へ出た経験も生まれた時の一度きりということになる。老犬になってからは、起きている時間も日増しに短くなり、目を離すといつの間にか大いびきをかいている。反面、ジャーキーや鹿肉チップをあげる時は、見違えるほどに元気だ。

 夜は父の書斎で頭を腹の中に潜り込ませるように丸まって眠っている。父も仕事で疲れてテレビをつけながら椅子の上で目を閉じている。父の足元で丸まって眠る犬の体に頬擦りをして鼻いっぱいに息を吸い込むと、3ヶ月ぐらい洗濯をサボっていた一人暮らしの時のベッドのような、そこまで不快ではないが、なんだかなつかしい獣臭がする。鼓動は遅くもなく、早くもなく、単純なBPMを刻んでいる。その単純な鼓動を感じていると、心が安らぐ気がしないでもない。実生活において理屈をこねくり回し、周りの人間を辟易させ、現実逃避癖のある困った人間(つまり私)にとって、いつだってこの世で起きている一切は複雑怪奇なものなのだが、これ以上なく単純な犬の鼓動を聞いていると、その複雑さや、軽い離人症状が晴れてくる気がして快い。梶井基次郎『檸檬』に出てくる、遠きカリフォルニアの地から運ばれてきたレモンのひんやりとした肌触り、その単純な色合い、形によって病の熱を和らげようとする青年も同じような気持ちだったのではないか。

 父は、夜な夜な赤ちゃん言葉で犬に語りかけるのを聞く機会が増えた。何を語っているのかはよく聞き取れない。家族の中で、最も長い時間を犬と一緒に過ごしている父である。また犬の方でも父が帰ってくるとその他の人間に対して決して見せることはない、ヒステリックな叫びを上げて、父の元へと行きたがる。強い関係で結ばれている。しかし、犬の方は父よりもずっと早くに死ぬだろう。その日がきたときに父がどこまで悲しみに堪えられるのかが心配ではある。

 愛するペットとの死別は、少なからぬ人間が経験するものだが、みんなはどのようにして乗り越えてきたのだろう? ペットは飼い主よりも早く死ぬ。飼わないで済ませられるものなら、そちらの方が好都合だ。なぜなら、ペットを飼うということは育児とは違い、いずれ来たるペットの死をも引き受けるということだからだ。何も自ら進んで将来のどこかに、避けられない悲しい別れ(いつもそうだとは限らないが)を置いておくこともあるまい。そうまでしてわざわざ犬猫を飼おうとする人間の気持ちは、逆にそこに不自由さの方を強く感じてしまう人間のそれと裏表のような気もする。私はというと、実にその両面の気持ちを持っている。ペットを飼っている間にペットの存在によって起こる感情の総量と、ペットとの別れ際やその後に起こる感情の総量は天秤では推し量れない。

 ケージの中でいびきをかき、時折しわぶきながら眠る我が家の犬を見ていると、いつか彼女がいなくなった時の、同じ場所の景色をなんとなく頭に思い浮かべてしまう。クッションの上で丸まって眠る姿も、階段の上で家族の帰りを心配そうに待ちわびて俯いている時の垂れた耳も、夜中に起き出してきては、ウォーターボトルに舌を打ちつけてせっせと水を飲んでいる時の騒がしい音も、いつか消えてなくなってしまう。後に残されるのは、2歳ぐらいの時に名古屋ドームの近くのイオン内のペットショップで撮った記念写真とか、ケージを撤去した後に残る床の傷跡、横着をしてフローリングの上で盛大にションベンをした時の淡いシミとか、その程度のものである。そんな痕跡の一つ一つをかき集めて、飼い主である人間側がどうにかして自分たちに都合の良いように正当化したり、美化していくしかないのだろうな、と思う。そう考えると、人間ではないただの畜生がいつか消えてなくなってしまうことも、その畜生に対して勝手に感情移入している自分も何もかも、先回りして妙に悲しく、膵炎の危険性もそっちのけで、鹿肉ジャーキーをついつい奮発してあげてしまうのだった。

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