極端な生き方とサイレント・テロル

 年に数度、極端な生き方をしている人間に出会うことがある。人格破綻者であることが少なくない。大抵、独り身(1人で人生が一応、完成している)である。すでに完成された生活を見栄もへったくれもない狭い部屋に構築しているので、わざわざパートナーを見つける必要性もなく、人によっては狭量な性格をしていると言われてしまうかもしれない。「なぜそれを」と少なからぬ人が思う対象に情熱を注ぎ、その他の事柄には一切の注意を払わない。そういう人間が一定数、いる。というか、ここ数年増えている気がする。もしかしたら、これまで隠されていたものが明るみに出るようになっただけかもしれない。俗世では仕事、家族、趣味その他もろもろの要素をほどよく、つまみ食いすることに美学を感じる人が多数派を占めていて、それはそれで良いなと思うのだが、極端な生き方をしている人は、極端な思考様式を持っているので、そういう円形の生活設計を嫌う。「やるなら徹底的に、やらぬのも徹底的に」というのが極端な生き方をしている人たちが深層意識下で抱えている座右の銘なのだ。だから旬の芸能人やお笑い芸人をあまり知らないし、流行りのアニメも観ることはない。「〜の呼吸」「全集中」という手垢がつきまくり、挙句変な菌が繁殖し、腐海みたいになっている言い回しにはおそらく辟易しているはずだし、周囲には偏屈+完璧主義者と思われていて、頻繁にぼやきの対象になる。と言っても全く愛されていないということもない。


 こないだ、名古屋駅前で通行人の話を聞く「聞き屋」なる人物に出会った。今年26歳になる自分と同じか、あるいは少し歳上ほどの、爽やかな男の人だ。彼は本も出していて、名古屋駅を日常的に利用している人は、名前は知らないまでも、結構な確率で彼の存在を認知しているのではないかと思う。晴れた夜にはいつも、ナナちゃん人形のそばの花壇の前へ自転車を漕いでふらりと現れ、看板代わりの大きなダンボールに「聞き屋」と書いてじっと待っている。ストリートミュージシャンの演奏がいかに素晴らしくても、その前で立ち止まって傾聴するのがどこか気恥ずかしいように、「聞き屋」に興味を持っても、ではいざ話を聞いてもらおうと近寄っていける人は少ない。音楽に耳を傾けるより大きなエネルギーを要する。だから、1日に訪れる客は、大抵2〜3人、多くても4〜5人なのだそうだ。私は今、名古屋駅にあるTACに資格取得のために通っていて、日常的に見るその「聞き屋」の存在が気になり、こないだついに声をかけてみたのだった。と言っても、何か面白い話が聞けたというわけではなかった。そもそも向こうは「聞き屋」なので、元々は他人の話を聞くということに存在価値を持っている。こちらが話を聞きにいくというのは少しお門違いな気もする。実際、本人も他人の話を聞くのは好きだが、自分のことを話すとなると、とたんに口籠るというか、どうもあんまり話したくはないという感じだったので、本当に少しのことしか聞けなかった。その中で面白いな、と思ったのが、彼は「聞き屋」で儲けてはいないということだった。というか、「聞き屋」は完全無料でやっていて、日々の糧はバイトで稼いでいるそうだ。夜に見かけることが多いので、おそらく日中はどこかで時給労働をし、その後名古屋駅前にきて聞き屋をやっているのだろう。いいんです、「聞き屋」が自分にとって1番やりたいことだったから、とボソッという彼も、「極端な生き方」の1つの形を生きている。と、自分は思った。


 「極端な生き方」=一点集中な生き方を選ぶ人と、「円形の生き方」=何事もバランスよく楽しむ生き方のどちらが良いのか、面白いのかという問いは人によって回答が様々であろうし、前者を選んだ人がずっと前者で行くわけでもなく、また逆も然りである。若い頃は盲滅法に目の前のことに熱中していたが、家庭を持ち、円熟することによってバランス型に変わってくる人、あるいは若い頃は熱中できるものが何一つ見つからなかったが、いい歳になった頃に自分の人生を賭けるに値する道楽を見つけ出し、死ぬまで情熱的に取り組む人などごまんと存在するわけで、単純にいずれかに分類できるようなものではない。しかし、どちらの生き方を選ぶにしろ、対象を見誤ってはいけないと思う。


 「対象を見誤る」とは、顔も見えない「世間」「社会」が「これをやれ。これをやらないと、お前は死ぬ!」と盛んに宣伝し、けしかけてくるようなコト・モノを「これをやらないと、確かに俺は死ぬかもしれない!」とマジで受け止め、血眼になって生きることである。


 デジタルデバイスを肌身離さず持ち歩くことが半ば強制されているこの世の中で、真面目な人は絶えず「足りない」という感覚に苛まれてしまう。ネットに接続すれば、SNSを開けば、顔の見えない、生きているのか分からない人々が知らぬ顔で実に多様なお節介をしてくるからだ。
 理想像で均された画面向こうの人類は、タバコや酒をやめて早く運動の習慣を身につけなさいと言い、積立NISAやREIT投資で暗い将来に備えなさいと言い、キャリアアップのためにプログラミングやマーケティング、SEOを学べと言い、髭や髪は常に清潔に整え、余裕があれば永久脱毛しろと言い、一部の余裕のある会社しか取れないはずの男性の育児休暇をもっと取れと言い、そもそも無能は働くなと言い、働かないなら生きている価値はないと言う。


 積立NISAは全国民がやる「べき」だし、プログラミングとマーケティングは全ビジネスマンが学ぶ「べき」なのだろう、多分。しかし、「べき」を切り口に始められる学習が、どれだけその人の意欲を引き出せるのか。プログラミング学習の挫折率は90パーセント。それはおそらく、学習者たちの能力不足だけが問題ではないのではないか。プログラミングを通して別段作りたいものがない人や、本当はもっと他にやるべき強い好奇心の対象(社会にとって有用かどうかはわきに置く)があるにも関わらず、これからの時代に必要な知識を学んだり、仕事でもっと「成功する」ために無理やり興味があるふりをしているから、そうなるのではないだろうか。これから「来る」プログラミングやデータサイエンスを、数列にもアルゴリズムにもデータ構造にも全く興味がない人々が取り組んだとして、果たして彼らは本当に必要とされる人材になれるだろうか。「好きなことで食べていける」世の中になったと言われるが、私には依然として詰め込み式の義務教育をリフレインしているようにしか思えないのである。


 と、えらそうに書いている私も新卒で1度は就職したものの、真っ当な社会人として生き抜いていく覚悟も持てず、たった半年足らずで勤めから逃亡してしまった無能の1人である。勤めていた頃、自意識でひどく悩んだ。朝9時から10時のあいだ常に満杯状態の職場の男子トイレに立ち込めるウンコ臭に、毛玉だらけのスウェット姿でスロット台の前に座り、便所サンダルをひっかけ、肥満な上にひどい歯槽膿漏を患って、無精髭を剃る気力すらなくなっている40代の私を連想し、ここで働き続ければいつか本格的に精神を病み、立ち直れなくなる、あと歯も無くなると半ば強迫観念でずいぶんよくしてくれた上司に無理を言って、逃げるように会社をやめた。現在は会計士の勉強をしていると言っても、賃金労働はせずに実家暮らしで親のお小遣いで命を繋いでいるし、頻繁にお昼過ぎまで眠っているし、まあ体の良いフリーターである。私のような人間は、いつ餓死するかわかったものではないし、いつ餓死したとしても一向に構わないと思われる人間が大半であろうと思う。こちらとしても、そうした世間の視線と、その視線を「いや、実にごもっとも!」と内面化してしまった自分の視線を痛いほど感じるので、自然に用心深くなる。


 巷で「サイレント・テロ」と呼ばれるライフスタイルがある。これは、「勝者総取り」の様相をどうやら呈するようになったこの資本主義社会で、もうどうあがいてもその勝者にはなれる見込みもなく、社畜になって騙し騙し中流的な生活を仮構していくモチベーションもない、ビートゥンな人々が、むしろ消費をできるだけ抑制し、フリーライドできる部分はなるべくフリーライドするという生活に徹することによって、お金に囚われない安寧を実現するとともに、主に大企業の経営者や役員、政治家などなど上流階級の人々に一撃を加えることを目論んだライフスタイルとみなされている。


 この定義からすると、私もどうやらサイレントテロリストたちの一員ということになるかもしれない。しかし、私は親のすねをかじりながらも生きていける大層な身分なので、頼れるもの何一つないヒリヒリする境涯の同胞たちからすると、「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」ということにもなる。しかし、まあ、根底で共通するメンタリティを持ち合わせている気もする。それは、言ってみればオーダーメイドの幸福論を追求するモチベーションだけを持ち合わせているということになるだろうか。つまり、「他者はあてにせず、俺は俺の好きなことをやるさ、でもそれがなんなのか今のところよくわかんないんだけど」みたいなことで、ぼやっとした思念はあれど、手を直接動かした経験があまりない。ゆえにまともな幸福論を求めようという欲求は持ちながらも、その幸福論を確定させる座標軸を何ももたない。ITの潮流は、世界を直接ハックすることができるという信念を持ち、またそれを具現化する技能を持った技術者たちを表舞台に引っ張り上げたが、それに相応する形で、生半可な思念を持った頭でっかちのインテリ気取りどもは地底へと引きずり下ろされることになった。もともと舞台に立っていたわけでもなく、ただただ危機に及んで何も代案を提出できない、何も具体化できないその劣等性が目立つようになった。己を振り返った時、私は自分がまぎれもなくその一員ではあるなと思うし、おそらく少なからぬサイレントテロリストたちは、そうではないかとこれは主観的ながらも思うのである。

 重力に逆らわずに際限なく堕ちていくゴミが、一体どこまで堕ち続けることができるのか、それを確かめるように惰眠を貪るのも面白い、だから俺のこともほっといてくれ、少なくとも否定されるべきではないと私は思うのだが、一方で「創る」という視点が欠けている限り、人間はどう振る舞ってもこの世界に一定の座標を持つことができない。後悔や自己嫌悪を感じながら過去をじめじめと振り返るだけでなく、何かしらの未来を作っていく活動に参加しないかぎり、私はずっと透明人間のように誰からも認識されないまま呼吸を続けていくことになるだろう。noteを書くことも、他者との細い繋がりにはなりうる。しかし、短期間で寿命が来るインスタントな賛辞のために書くことは、やはり空虚な所業だと言わざるを得ない。下手でもいいから、最初は小指大の大きさの小さな塊でもいいから、「創る」ということに舵を切っていかなければならない。

 苦しいけど、そうした試みを続けていく中で、仮に自分が創りつづけたいもの、寝食を忘れて没頭できるものを見つけることができれば、ほとんどのサイレントテロリストたちは漸進的に勇敢な活動家にもなるだろう。


 お仕着せの価値観には警戒する必要がある。よくよく吟味して有効だと思えたモノから取り入れていくべきだ。そして、その価値判断は個人に託されている。だから私はタバコも酒も辞めないし、野菜と魚介中心の食生活もしないし、将来いつまでも元気に活動するために運動の習慣もつけないかもしれない。ホワイトニングも永久脱毛もしないかもしれない。稼ぎの一部を積み立てないかもしれない。金持ち父さんが口を開こうとした瞬間、耳を塞いで逃走するかもしれない。逃走した先で待ち構えていたユダヤの大富豪が「フォッフォッフォッ、そんなお主に特別な知恵を授けてやろう…これを実践すれば……」と高笑いしながら何か教えようとしてきたらもう死んだふりをするかもしれない。来たるデジタルトランスフォーメーションに備えて、プログラミングも学習しないかもしれない。キャリアアップのために、マーケティングもSEOも学ばないかもしれない。ビジネス書に書かれているニーチェの言葉にも従わないかもしれない。嫌われる勇気持てないかもしれない。『鬼滅の刃』も『呪術廻戦』も観ないだろうし、働かないのもなんかこう…いいなと思う。 お金無くなったら粉末ポカリ飲んで仰向けになって寝てる。ポカリも尽きたら、もう呼吸すらしない。側溝の温かい腐葉土の上でゴキブリとドブネズミに看取られながら走馬灯をネタにセンズリこいて死ぬ。でも、noteは好きだから、細々と、長く書き続けていこうとおもう。1000本の記事を書きたい。1000本書いたら、次は10000本の記事を書きたい。読む人がいなくても、少しずつ転がしながら大きくしていける自分にとっての雪だるまみたいなものになればいいな、と思う。だから、noteというサービスが永久に営まれ続けてほしい。どうかよろしくお願いします加藤さん。

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