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大都会の孤独

(「noteのcakes」アカウントにて2019年4月14日に書いたものを修正して転載)

4月から住んでいる光が丘は、都営大江戸線の端っこにある街だ。

新宿から、電車に乗って約30分。駅から地上に出ると、いかにもベッドタウンといった様相の町並みが現れる。

どの部屋もちょうど同じ広さになるように隅々まで計算し尽くされたような白塗りの公営住宅が何棟も林立し、一階の公園では深夜以外であればいつでもボール遊びや自転車を走らせながら仲間との会話に興じる子供の声を聴くことができる。

駅からほんの少しでも離れてしまうと、満足に食事をしたり、お酒を呑んだりできるような店など殆ど見つけられない代わりに、駅前には大きな立体駐車場を備えた複合ショッピングモールがどっしりと構えているのもベッドタウンらしい。

腹を空かせた貧乏な独り身たちはみな夜になるとそこの1~3階に立ち並ぶ飲食チェーンにのそのそと集まる。サイゼリヤ、リンガーハット、マクドナルド、とんかつの和幸や大戸屋など。どの店もそれなりに美味しいが、一人で毎日のように訪れていると、どこか寂しい食事に思えるときもある。塾と部活帰りの中高生や、家族連れもこうした店を利用する。賑やかな彼らのテーブルに猫背を向けて窓際のカウンターでせっせと餌を食べている独り身たちの影は、傍目からは対比的に一層濃くなって見えているだろう。

一人でいる人間が楽しそうに生活して見えることは少ない。

おそらく、日常で笑う機会が多くないからだと思う。笑顔がそのまま楽しい生活に結びつくわけでもないが、実際に一人で過ごしがちな人間はあんまり笑わないように感じる。そこに妙な「とっつきにくさ」を感じられてしまうこともある。誰か他の人間と一緒にいる時に笑うのは何もおかしいことではないけれど、一人でいる時に笑うのはやっぱりちょっと不自然だ。

だから、電車やカフェの店内で、一人でSNSを眺めている最中に、妙にツボに入る呟きや動画が流れてきて思わず笑ってしまったときには顔が赤らむし、誰か見ていやしなかったか、と伏し目がちに周囲をそっと見回して自分の醜態を他人に晒さずに済んだということを確認しなければ安心できない気持ちになるのである。

しかし、もしも奇跡的に周りの人間が自分の方を向いていなかったとしても、それだけで安心するのは早計だ。よほどの性悪でないかぎり、多くが「自分がされて嫌なことは、なるべくしないでおこう」と考えられるのが人間の善なのだとすれば、自分がスマホの画面を見ながらクスッと笑い、その直後にたちまち顔を赤らめながら目だけ動かしてあたりをそっと窺う一連のくだりを、彼らは一部始終目撃した上で見ていないフリをしてくれているかもしれないからだ。

お互いに無関心を装ってスマホの画面に夢中になっているように振る舞っていても、やっぱりどこかで他人を意識せざるを得ないのが、また人の性なのではないかと思う。

僕は、一人で一週間以上も過ごすことができない人間だ。とりわけ、街の中ではそんな気がする。だから、一週間のうち最低でも一回は誰かを食事に誘い、ダラダラ雑談をしながら歩くのが近年、何よりの娯楽になっている。

池袋に住んでいた昨年までは、気のおけない友達が4人も近場に暮らしていたので一週間に一度ぐらいなら遊び相手に困らなかった。

しかし、今年になって彼らのうち2人は仕事で富山と静岡へ行ってしまった。もう一人は拘束14時間以上で休みも不定期なブラック鍼灸院で働き始めてしまったために、なかなか時間が合わなくなった。最後の一人はエンジニアとして働きながら池袋に住んでいて、今まで一番手軽に会える友達であったが、彼は今年から妙に渓流での鱒釣りにハマってしまい、土日はずっと山に籠もるようになってしまった。加えて僕の方が池袋を離れてしまったために何となく会う機会が遠のいている(冷静に考えてみれば、光が丘から池袋までは大江戸線で「練馬」へ行き、そこから西武池袋線に乗り継ぐだけなので、実際はもっと手軽に行けるはずなのだが、何となく距離があるように感じてしまうのは何故だろう?)。

こうした事情で、気軽に会うことのできる友達は今年からぐっと減ってしまっている。LINEでのトークだけでは、やはり満たされないこともある。このまま誰とも全く話さない年月を1ヶ月、1年、10年と伸ばしていくとどうなるか、ちょっと実験してみたい気もする。

が、とりあえず1週間話さないと気が狂いそうになるのが今の自分なので、どうにかして対策を考えなければ……と考えた末に「馴染みの店」を作ろう、と思った。父の言葉を思い出したのだ。

名古屋から上京する時、父はよく「安居酒屋でいいから、馴染みの店を一つは持っておいた方が良いぞ」と言っていた。○民みたいなチェーンじゃない、個人が営んでいる安居酒屋がいい、と。今自分がこういう生活をするようになってみて、初めて父が言っていたことに合点がいく気がする。店主でも常連でも、そこへ行けばとにかく誰かと話せるような場所を持っておくことは、いつまでも一人だけでいられるほど強くはない自分のような人間が正常であり続けるための知恵なのだな、と。話すためにお金を払うのではなく、あくまで食事のついでに……という気軽さが大切なのだろう。

飲食店が少なく、あったとしても大半がチェーン店の光が丘の街で、馴染みにできそうな店を探すのは簡単ではなかった。しかし最近になって、偶然いい店を見つけることができた。僕の部屋から2kmほど歩いた先の国道沿いにある小さなラーメン居酒屋だ。

僕がそこへ行く時には、いつも40~50代ぐらいの金髪で中年のご婦人と、高校生ぐらいの女の子の二人がキッチンでせわしなく動き回っている。このお店にはラーメンだけでなく、カレーや定食、おつまみなども充実していて、酒を飲むのにも良さそうだ(おでんもある!)。ハートランドビールが置いてあるのも嬉しい。何より、店の雰囲気も店員さんも明るいのがいい。料理は3割増ぐらいに美味しく思えるし、そもそも美味しいから全く残さない。「ごちそうさまでした」と「ありがとうございました」のやりとりだけで、何となく仲良くなれそうな気がする。800~900円かそこらでこんなに落ち着いて食事ができる場所があるなら毎日だって通える。この直感は重要だ。無意識に居心地の良さを感じる場所には、いい人が集まってくる気がする。

あとは店員さんの笑顔が眩しすぎて、自分にはまだ直視できないところを克服できれば、きっといい馴染みの店になってくれるんじゃないか。

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