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紙魚を飼う男

 ある寂れたアパートに、読書好きの男が一人暮らしをしていた。彼は本を読むのは好きだったが、書くことはあまり好きではなかった。真っ白な原稿用紙を前にすると、とたんに何も思い浮かばなくなるのだ。しかし人並みに功名心を持ち合わせてもいたから、いつか傑作と呼ばれる小説を書き上げて、世間に自分の名前を知らしめてやりたいとも考えていた。

 いつか作家になって売れてやると思ったまま、十年が経っても、男は何も書かなかった。いや、原稿用紙1枚にも満たないような断片を書きつけたことは幾度もあったが、これではダメだと感じて書き上げないうちに破り捨ててしまっていた。

 「俺には何か人を喜ばせるような作品を書くのは無理なのかもしれない」。そんな気持ちを抱き始めた頃だった。男は自宅で一匹の紙魚(しみ)を捕まえた。古書店で買った文庫本を読んでいたら、ページとページの間に銀粉を塗したような薄い体の虫が触覚をそばだてながら、男の様子を伺っていたのである。

 紙魚は民家の中に暮らす虫である。字面の通り、紙も食うし、そのほかさまざまな物を食う。体が平べったいから書物の中にも簡単に滑り入ることができる。紙の海を泳ぐ魚。男は紙魚という虫が好きだった。その字並びに一抹の詩情を見出すのは、男に残された最後の文学的感性とも言えた。

 その日から男は紙魚を飼い始めた。ちょっとだけ湿らせたティッシュを敷き詰めたマッチ箱の中に紙魚を入れて、クローゼットの一角に置いておく。そして朝昼晩と3食欠かさず餌をやる。紙魚に食わせるからには、餌は本の切れ端と相場が決まっている。男は、これまで読んだ本の中で比較的退屈だったものを選び出し、切り刻んで紙魚にやった。

 男が放る本の切れ端を、紙魚は次々に平らげていった。浅薄な警句や三文も出す価値のないような低俗な虚構の欠片は皆、紙魚の体を通過していき、その度ごとに紙魚の体も大きくなった。

 男が紙魚を飼い始めて三週間が経ったある日のことだった。同種の他の個体と比べると、異常発達といえるほど大きくなった紙魚の体から、異様に大きな糞が転がり出てきた。男がそれを掴んで調べると、中からくしゃくしゃになった原稿用紙が出てきた。広げて読んでみると、それは男がこれまで読んだことのない小説だった。男はそれを最後まで読んだが、あまり面白くはなかった。具体的にはストーリーが単調なくせに露悪的で、主人公はあまりにも自己陶酔的なのだ。それはこれまで紙魚に食わせてきた三文小説や低俗な自己啓発書の集積のように思えた。

 「間違いない。こいつは言葉を食べすぎて、ついには自分で言葉を生み出せるようになったのだ」。そう男は確信した。紙魚の出す作品は、これまで男に与えてもらっていた作品から成り立っている。もしそれが確かだとすれば、食わせる作品を慎重に選べば、まだ世に出ていない傑作を生み出させることもできるのではないか。男は興奮した。自分だけではスタートラインにさえ立てなかった文学的成功への道が、ひょんなきっかけで開いたのだ。紙魚が書いた作品の著作権は、飼い主のものだ。

 『ドン・キホーテ』『オデュッセイア』『老人と海』『百年の孤独』……。その日から男は名作と呼ばれる文学作品を部屋中からかき集め、紙魚に食わせた。部屋に本がなくなると、古書店に行き、心当たりがある作品を片っ端から買いあげた。その中の少なからぬ割合は、男がまだ読んだことのない作品であったが気にはならなかった。「名作傑作と世間一般で言われているものでありさえすればいいのだ。所詮、書くのは俺ではなく、あの虫なのだからな」。

 そうして何年も経ったある日、すでに飼い主である男と同じぐらいの大きさになっていた紙魚がうめき始めた。紙魚の肛門のあたりがもぞもぞと蠕動したかと思うと、大きな大きな紙の束が丸まった状態で転がり出てきた。その紙の束を排泄してから間も無く、紙魚はごろんと床に転がり動かなくなったが、男はペットの死には全く見向きもせず、歓喜の叫びを上げて紙の束を手に取った。広げてみると、中身はやはり原稿用紙。しかも千枚以上ある。

 「あれほど古今東西の名作を飲み込ませた挙句に出てきた作品だ。この作品はきっと、文学史に残るような傑作小説に違いない」。男は胸を期待で膨らませながら紙魚の遺作を読み始めたが、1枚2枚と読み進むごとに顔が険しくなっていった。

 なぜなら男にはもう、「良い小説」がどういうものなのかがさっぱり分からなくなっていたからだった。

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