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秘密の質問

(2020年3月21日に「noteのcakes」アカウントで書いたものを転載)

 犬を飼っている。アプリコットカラーのトイ・プードルだ。名前を「ティファニー」という。2006年の初め頃に京都で生まれ、愛知の我が家にやってきた。名は姉が考えた。その名から連想される通り、雌である。

 引き取りに行ったのは2006年の4月ごろだったと思う。京都のペットショップで受け取り、トイレシートを敷いたダンボールの中に入れて名古屋まで連れ帰った。数ヶ月前に生まれたばかりの子犬は、道中震えるわけでもなく、車窓の外の世界を、不思議そうに見上げては、合間合間に糞をした。窓の外を走る高速道路の外壁や、外壁のガラスを通してうっすら見える広い世界に見惚れているようでもあり、ただ気圧されているだけにも見えた。

 夜、我が家に着いた子犬は、店で貰ったドッグフードを平らげ、予め組み立てておいたケージへ恐る恐る入っていった。しばらくは姉と一緒に寝ることになっていた。そもそも犬を飼いたいと望んだのが姉だった。

 翌日には、「ティファニー」と呼ぶと、犬は振り向くようになった。

 ティファニーの下顎には一筋の白い毛が生えており、それがこの上なく可愛らしい。愛らしいものを逆に困らせたくなる心理から、ティファニーが部屋に入ってくるたびにその部分を指先で触ったり、つついたりしていたら、やがて怒って噛み付くようになった。

 犬には、自分の属する集団のヒエラルキーを鋭敏に察知する能力が備わっている。人間集団に扶養される身分になれば、彼ら同士の振る舞いを敏感に観察してヒエラルキー図を構築し、「下から2番目」ぐらいの階級に自分を位置付ける習性があるようだ。これはうちだけではなく、犬を飼っている知人に聞いても、結構同じ答えが返ってくる。

 どうやら、ティファニーは上から父→母→姉→犬→弟というヒエラルキー図を作り上げたようだった。一緒に暮らし始めてから僅か3ヶ月ほどで、ティファニーは父が家にいる間は彼の元を離れなくなり、一方でこちらには抱っこはおろか、ボール遊びをねだる場合と、美味しそうな食べ物を所持している場合を除いて、近づいてくることもなくなった。

 群れで一番強い者を頼り、少しでも多くの利益を享受しようとするのは動物本能的に当然としても、少し寂しい気持ちになる。とはいえ、今振り返るとこちらにも原因はあったのかもしれない。と言うのも、以前自分はティファニーを手酷く痛めつけてしまった事があるのだ。

 我が家にきて暫くの間、ティファニーは常時紙おむつをつけていた。シートの敷かれた場所以外に、度々小便をしてしまう習慣に悩まされてからだ。ある日、ティファニーがそわそわした素振りをしているので、私は彼女がオムツの中に小便をしたのだなと察知した。不運なことに、その時に家に居たのは私一人だったので、あまり触れたことがないオムツを交換してやることにした。オムツに触れると、唸りだす。ここまではいつものことだ。父にも母にも、オムツ交換の時は唸る。

 そこからが違った。オムツを外し、新品に替えようとしたところで、ティファニーが牙を向いて獣の形相で私の右手に思いっきり噛み付いてきた。上下の前歯が親指の第二関節あたりに食い込む。

「ッ痛!!」

 鋭く強い痛みに襲われた私は、思わず逆上して、顎から引き抜いた右手でそのままティファニーの頭を思いっきりはたいてしまった。瞬間、彼女は「キャンッ」と悲鳴をあげ、私のもとから逃げていった。一定の距離を置いて、こちらを振り向く瞳は驚愕と恐怖で見開かれていた。その瞳を見た時に覚えたショックと失望感を、昨日のように思い出せる。「虐待者」として認識されるようになってしまったのだ、もう理想的な関係など築けないだろう、とそう思った。

 それから2年経ち、私は家を出て全寮制の中高一貫校に通うことになった。実家に帰る期間は1年のうちでも短く、当然ティファニーと顔を合わせる機会も激減した。意図せずして虐待してしまった苦い記憶があったので、これにはホッとするところもあった。のち、私とティファニーは、時々ボール遊びに付き合えど、あまり仲良くする事はなかった。長期休暇で父が私を学校から連れて帰った時も、この雌犬は一別以来のご無沙汰を詫びることもなく、私を無視して父のもとへ走っていく。私の方も「ああ、そうですか」と白け切り、そのうちこの犬を動く置物のように無関心に捉えるようになった。

 1つだけ、不思議な思い出がある。高校生の頃、新型インフルエンザのために帰省を余儀なくされ、私が実家で1週間寝込んでいた時、この犬はまるで護衛か何かを自任するように、私の傍らにずっとひっ付いて居たのである。1日中、この雌犬は私のもとを離れようとしなかった。夜は必ず盟主(=父)の隣に寝ていたのに、この時ばかりは私のベッドの隅の方にちょこんと丸まったまま、じっと動かなかった。

 こうした出来事を、心温まる話に加工することは容易い。しかし私は、あの時ティファニーが見せた一時的な献身を、心温まる思い出として手早く額縁に入れることに躊躇いがある。ティファニーが家族内のヒエラルキー内で私を自分よりも下に置いて「取るに足らない弟」として片付けたのと同様、件の行動についても「優しさ」「献身」とはかけ離れた動物的な打算から取った可能性だって否定できないのだ。そもそもが畜生である。のちに、鳥が卵を温め、ヒナに餌をやるのは親心(愛情)からではなく、単に刺激に対する反応であるという話をTVで見、私は「打算説」の考えを一層強くした。

 寮規則のためにネットサーフィンを満足にできなかった高校を卒業し、晴れて大学生になってiPhoneを入手した私は、様々なコンテンツに触れるようになった。そのうち殆どは会員登録が必要である。ユーザー名とパスワードを決める。どちらかを忘れた時のため、『秘密の質問』を用意せねばならない。

 『秘密の質問』には色々あり、好きなものを選べるようになっている。「好きな食べ物は?」、「最近観た映画は?」、「1番の親友の名前は?」などである。最初、私は『秘密の質問』を「祖母の名前」か「1番好きな映画は?」に設定していた。いわゆるおばあちゃん子で、小さい頃から映画も好きだったからだ。

 ところが、私は母方・父方の両祖母を慕っていた。これではいざという時、どちらの名前を答えるべきか迷う。また、1番好きな映画も、年によってころころ変わる。結局、もっと単純な質問を、ということで「ペットの名前」に落ち着いた。私が生涯で「飼った」と言えるペットは、あの1匹の雌犬だけなのであった。それまでにもクワガタやカマキリ、ザリガニを飼っていた時もあったが、この種の生物には名前を付けようなどと思わない。

 パスワードを忘れるたびに、私は「ティファニー」という名前を打ち込む。その度、14歳の老境に入り、すっかり耄碌してしまったヨボヨボの犬の姿が頭に浮かぶ。2006年にあれほど鮮やかだったアプリコットは、今ではすっかり褪せてしまい、抜け毛も多くなった。ボール遊びをせがんでくることももうない。あれほど嫌がっていた抱っこも、今では強引にかかればさせてくれるようになった。腕の中で不機嫌そうにそっぽを向いている小さな頭にふっと息を吹きかけると、大人が子供をたしなめるように小さな黒い瞳がこちらを見上げる。その顎には、すっかり艶を失ったものの、やっぱり一筋の白い毛が伸びている。

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