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母の過去~解き明かされた問題の背景~

 私は母のことが、幼い頃から苦手でした。小さい頃は、もちろん、母のことはそれなりに好きでしたが、物心ついた頃から、いつも顔色を伺っていた感があります。
 
 例えば、朝起きて「ねえ、起きてよ~」と、こちらとしてはいつもの調子で母を揺さぶり起そうとすると、「うるさいわねっ!お母さんは疲れているんだから、寝かせてちょうだい!」といきなり怒鳴られたり、これまで仲良く付き合っていた隣家のおばさんを、いきなり無視して一切付き合わなくなったり、よく遊びに来ていた叔母(母の妹)を「何しに来たのっ!」とすごい剣幕で怒鳴り散らして追い返したり…といった場面を、幼い頃からよく目にしていたからです。
 一度、決裂した相手と関係修復することは基本的になく、叔母とも、その後、8年ほど絶縁状態でした。
 
 父ともよく喧嘩しては、お母さんとお父さんとどっちと暮らしたい?」としょっちゅう聞かれたり、「実家に帰らせていただきます」と言っては飛び出したりしていたので「今日の母の機嫌」というものにすごく敏感でした。
 
 幼い私にはその背景が理解できなかったので、豹変する母は恐怖でしかなかったし、母の機嫌によって“つきあって良い人”が変わるので、いつもビクビクしていました。少し成長して10代になってからは、自分の思い通りにならないと「普通はこうなのに!」と責めてくる母の言動には納得できず、“理不尽”としか思えなかったため、「母の話はいつも筋が通っていない」と怒りを覚えることが増えました。
 なので、若かりし頃は、母のことは“人間として嫌い”で、“親でなかったら絶対につきあいたくないタイプの人間”と思っていました。
 
 その後、「やっぱりこの人おかしい」と思うようになり、「これは、いわゆるノイローゼというやつでないか。この病んだ人を1人にはできない」と思い、母について一緒に家を出る、という決断をするに至ったことは既に書いた通りです。
 
 しかし、なぜ母はこうなのか。その理由がずっとわからなかったのですが、ある時、怒りにまかせて母が放った一言から、その根底を解き明かす手がかりが得られました。
 
「おじいちゃんはね、死んだんじゃなくて、外に女をつくって私達を捨てたのよっ。心臓麻痺で死んだって言うのは嘘なの!」
 
 どうしてそんな話になったのか、そのきっかけについては覚えていないのですが、「なんで私ばかりがこんな目にあうのか」という母の怒りが沸点に達して、出たセリフでした。
「どう?知らなかったでしょ?」
「うん、知らなかった」
「驚いた?」
「そうだね。確かに驚いた」
 
 母からは、祖父が飲み屋の女性に入れ揚げて、祖父母が離婚するに至ったこと。祖母は働きに出るために、子ども達を預けたりしないとやっていけなかったこと。当時2歳位だった弟が「お姉ちゃん行かないで」と泣いて追いかけてくるので、小学校にもろくに通えなかったこと、「長女なんだから」と言う理由で、小学生の頃からおさんどんもさせられていたこと……。
 
「あの人はね、『長男は跡継ぎだから、7歳になったら迎えにくる』って言ったのに、結局、引き取りに来なかったのよ」とも恨みがましく語っていました。
 昔ならそうだったのかもしれないですが、弟だけは跡取りだから迎えに来る、というのも母にとっては傷になったでしょうし、結局、弟すら引き取りにこなかった祖父への恨みは相当なものだったでしょう。
 “酒を出す店”をあそこまで毛嫌いし、「この世の商売の中で水商売が一番嫌い」という気持ちも、そういった背景があったなら理解はできます。
 
 しばらく、祖母の兄宅に身を寄せていた時期もあったようで、高校生の時には曾祖母のおしめを替えたりもしていたとのこと。そしてその曾祖母は、母が高校から帰ってくるのを待って、「ありがとう」と言って亡くなったこと等も、語られました。
 いわゆる、典型的な「ヤングケアラー」です。
 
 こうして生きてきた母は「いつか苦労が報われて幸せになること」をずっと夢見てきたのだと思います。「幸せな形」は母の中で理想的な形で結晶化されていき、それを阻害する要素は許せなかった。

 叔母と絶縁していた理由が、叔母が「できちゃった結婚」をしたからだったということも後にわかりました。「身内がそんなふしだらなことをする」なんて許せなかったからで「でも、結婚するなら応援しようよ」と結婚式に向けて動いてくれた、地元の自分の友達のことも「私が反対しているのになぜ余計なことをするのか」と怒って絶縁し、その後、一切、連絡を絶ったのだとか。
 
 母方祖母とは、定期的に電話したり、お茶や野菜を送りあったり、長年、良い関係だったのですが、その祖母とも、結局、最後は絶縁して、死ぬまで会いませんでした。
 きっかけは、一人暮らしをしていた祖母が、町営の高齢者住宅に入ることを決めたこと。
 祖母は「いったい、何を怒っているんだい?」と最後まで理解できなかったようですが、母としては、いつか自分が引き取って面倒を見ようと思っていたのに、祖母が“勝手に”高齢者住宅に入ることを決めた、というのが許しがたかったようです。その後、叔母に「あの人のせいで、私は苦労させられた。一生許さない」等と怒りをぶちまけていたようで「ねえ、あなたのお母さん、ちょっとおかしくない?これまでおばあちゃんとは仲良くつきあってきたのに、いきなりそんな昔のことを持ち出して、そんな風に言い出すなんて」と私宛に電話がかかってきました。
 
 この頃には、私も心理学や精神医学の勉強をしていたので、母の問題の根底に“愛着障害”があるということが理解できていました。
 
・密な関係を築いては、何かあると一方的に絶縁する。
・0か100かでしか捉えられない。
・自分にとって不都合な記憶が頭から抜け落ちる。
・自分を守るために、事実でないことが事実として認識されていることがある。
 
 叔母にも「今に始まったことではなく、もっと根の深い問題なのだ」とこうした母の特性について説明し、なるべく巻き込まれず、一線を引いてつきあうことを勧めました。
 
「今の人達は、我慢が足りない」
「普通はこうするべきなのに……」

 
 この2つがいつも決めゼリフだった母。我慢に我慢を重ねる人生だった母は、周囲の人間にも自分と同じ「我慢」をすることを強い、自分の考え=普通として、そこから外れるものは許せなかった。
 そこにあるのは、「自分を認めてほしい」「自分のことを丸ごと認めて愛してほしい」という、小さな子どもの叫びのように思います。
 そう思うとせつなさを感じますが、愛着障害の根というのは非常に深く、通常、「もっともっと」と際限なく求めてきて、心から満足してくれることがないので、周囲の人間は疲弊してしまいます。
 
 うちの父は「俺がもっと、あの人のことを受け止められるデカい器があったら良かったのかな…」「今からでも、自分にできることがあれば…」等と時折言っています。

「若い頃のあの人は、本当に健気な人だったよ。嫁として認められようと、必死だった」
「愛情深い人なんだよ。だからお母さんを恨んではいけないよ」
とも。
 
 理解はできるし、恨みはないです。そして、この世に産んでくれて、ここまで生きてこられたことに感謝しています。
 あの日、私と一緒に死のうとした母が、私の命を奪わず、ここまで生かしてくれたこと。そしてその私も母になり、命がつながったこと。これだけでも、人生に感謝です。


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