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養子縁組そして短大卒業

母が亡くなった後、危篤の時に受験できなかった前期試験の代わりに、いくつかレポート提出となった。
苦手だけど、頑張って作成して、無事に単位を認めていただいた。
夏休み中は、子ども①を連れて大阪の親戚宅にレスパイト。
劇団四季の『マンマ・ミーア』を観劇して、大号泣してしまい、近くにいたオバサマに心配されたほどだった。
私は、なんだかんだと反抗していたけど、母が大好きだったんだと実感した。

当初、佳哉と結婚するときの条件で、3~5年を目処に佳哉が養子に入る約束となっていた。
母が亡くなったタイミングで、養子縁組はそろそろだということになり、2005年10月に養子縁組の手続きをした。
子ども①は姓が変更となり、保育園でいろいろと噂になった。
「苗字が変わったのに、
 朝はパパが送ってきて、お迎えはママだよね~
 離婚して大変そうね~」

と、同じクラスだけどあまりお話ししたことのないママに声をかけられた。
「ウチ、ダンナと父親が養子縁組しただけなんですよ!」
と答えると、かなり驚かれた。

短大は後期の授業も始まったが、単位互換制度でかなり時間に余裕があった私。
そんな時に、イケちゃんから悪魔の囁きが!!
短大の2つ先の駅で待ち合わせて、ホテルへ。
久しぶりに抱かれて、今まで押し込めていた気持ちが溢れた。
佳哉に対する愚痴、毒義両親に対する思い、自分の置かれた立場etc
イケちゃんは黙って聞いていてくれた。
そして優しく抱きしめてくれて、頭をヨシヨシと撫でてくれる。
まるで“こども扱い”と思えるけど、私はこれで心が安らいでいく。
不思議だが、佳哉に同じことをされても、全く何も感じない。
たぶん私の中でイケちゃんは頼れるお兄ちゃんのイメージで、佳哉は大きなガキといった感じだからなのかも。

短大卒業するまでの約束で、私は出産した病院の産婦人科でピルを処方してもらっていた。
2006年1月、無事に短大卒業が確定したので、ピルを止めて妊活を開始することになった。
私の予定では、2006年中に2人目を妊娠出産すること!
医師からは、ピルを止めてすぐに妊娠しない人もいるから、焦らないようにと忠告されていた。
イケちゃんとこは、奥さんが4人目を出産したばかりだった。

2006年3月、短大を卒業し保育士も取得した。
卒業式は袴で出席。
子ども①と佳哉もスーツで参加してくれた。
帰りに毒義父が入院している病院に、袴姿を見せに行った。
毒義父が喜んでくれた姿を見て、【お酒が無いとフツーのおじいちゃんなんだな】と思った。

袴姿を見せた1週間後、毒義父が亡くなった。
たぶん72歳だった。
通夜・告別式で佳哉の親戚の男たちは、浴びるように酒を呑み、部屋が煙で真っ白になるまで喫煙していた。
お嫁さんであるオバ達は、毒義母の指令のもとテキパキ動いていた。
佳哉の従兄弟達のお嫁さん達も、同じようにこき使われていた。
ただ私みたいに、就学前の子どもがいる人たちは、別室で子どもたちとノンビリさせてもらった。
そのせいで私は、焼香も骨上げもさせてもらえなかったけど。
別にやりたくなかったからいいんだけどさ。

短大卒業後、私の実家を同居できるように建直しすることになったり、派遣で中古車会社の事務として仕事したり、2人目不妊疑いで産婦人科に通ったり・・・
かなりハードスケジュールだったが、まぁまぁ充実していた気がした。
ただ夫婦のSEXは、妊娠するための義務のようなものになっていて、私は全く楽しくなかった。
そんな私に気がついて連絡してくるイケちゃんは、いつも私の癒しとなってくれていた。

これは2005年9月末頃から2006年秋頃のエピソード。
イケちゃんのセンサーは素晴らしく、私の心に隙間が出来てくると、連絡してくれる。
そして優しく癒してくれる。
そして毒義父が亡きあと、毒義母は自分の妹や姪っ子と毎月のように旅行を楽しんでいました。
おかげで攻撃されることは、ほぼありませんでした。

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