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【一人読書会】D. パーフィット『重要なことについて』 #2:「べし」

↓前回


「べし」とは何か

倫理学とは人が何をなす「べき」かを考える学問である。しかし、この「べし」というのもまた厄介で説明しづらい概念である。今回はこの「べし」という言葉について考えていく。


パーフィットは「理由」と同様に「べし」も原始的で根本的な概念だとしている。つまり、「べし」を何か他の言葉で定義することはできないということだ。

このような、定義不可能な概念については「理由」について見てきたのと同様に、その使い方を考えてみることで、概念の輪郭を掴むことができる。


パーフィットは「べし」について、幾つかの異なる使い方を挙げている。

そのうちで特に重要なのは、決定的理由を含意する「べし」と理性的な「べし」の二つの区別である。以下、整理していく。


決定的理由を含意する「べし」

いきなり、「決定的理由を含意する」なる難しい言葉が出てきた。この「決定的理由」というのは前回も出てきた概念である。

もう一度説明すると、ある行為をなすべき理由が、他のどんな行為をなすべき理由よりも強い時、その理由は決定的な理由(最大の理由)である。

したがって、決定的理由を含意するというのは、その状況下で最も強い理由を持つ、といった具合の意味になる。

つまり、決定的な理由を含意するという意味である行動をするべきだ、と言った場合、それはその行動が、その状況下で最も強いなすべき理由を持つ行動であるということだ。


ここで一つ例をあげよう。

私が森を歩いていると、一匹のクマと遭遇した。私は自分の命を守るためには、そのクマに背を向けて走って逃げなければならない、と信じている。しかし、一般に知られているように、背を向けて走ってしまうと逆にクマを刺激して襲われてしまう。だから、実際には私はクマの様子を確認しながら静かに移動してクマから離れるまでやり過ごす「べき」なのだ。

この最後の「べき」が決定的理由を含意する意味で使われた「べき」である。つまり、私が助かるためになすべき最も強い理由を持つ行動は、じっとしている、という行動なのだ。


しかし、私がクマから助かろうと思って走って逃げたとしても、その行動もまた十分理解できる行動だろう。なぜなら、私は、走って逃げれば助かる、という誤った信念を持っているからである。その信念との整合性を考えればむしろ、走って逃げる、という行動こそ私がなす「べき」ことなのではないか。

このような疑問に応えるのが次の理性的な「べし」である。


理性的な「べし」

いきなり定義を述べよう。


ある行為は、理由を与える事実について我々が持ってる信念が真ならばそのように行動すべき十分な理由を我々に与えるときには、理性的である。

これらの理由が決定的なときには、それは我々が理性的になすべきことである。


「理由を与える事実」とは、幾つもある可能な行動の中から、特にある行動をなすべき理由を与える事実、という意味である。前回説明した通り、理由は事実によって与えられる。パーフィットは理由を与える事実を「重要な事実」とも呼ぶ。以下、それに倣い重要な事実という言い方を用いることにする。



上の定義からわかるように、重要な事実を全て知っていれば、理性的になすべきことと決定的理由を含意する意味でなすべきこととは一致する。問題は、私が一部の事実しか知らない、あるいは誤った信念を持っている場合である。


上記のクマの例に戻れば、背を向けて逃げれば助かる、という私の信念は実際には偽であるわけだが、もし仮にそれが真であるとしたなら、それは私が背を向けて逃げる十分な理由を与える。ゆえに、私が背を向けて逃げたのは理性的な行いであったのだ。

むしろ、このケースでは、私は静かに移動しながらやり過ごせば助かるという信念を一切抱いていないのだから、そのように行動するのは非理性的な行動ということになる。


このように、決定的理由を含意する意味でなすべきことと、理性的になすべきことは食い違う場合があるのだ。

このような違いが生じるのは、理由を与えるのは事実だが、理性的であるかどうかは信念に依存しているからである。

クマと出会ったときに、助かるためには、事実としては静かに移動するのがなすべき行動なのであるが、私の信念としては走って逃げるのがなすべき行動なのである。


では、なぜこのような区別をするのか。それは、二つの「べし」で問おうとしている事柄がそれぞれ異なるからである。

決定的理由を含意する意味でなすべきことを語るとき、私たちが問いたいのは、そのような状況下で人は何をなすべきか、である。

一方で、理性的になすべきことを語るとき、私たちが問いたいのは、そのような状況下でどのような行動が「非理性的」という批判に値するか、である。

確かに、背を向けて逃げるという私の行動は、クマから助かるうえで私がすべき行動ではなかったかもしれない、しかしだからと言って私が非理性的であったとは限らない。

このように両者を区別することで、何をなすべきか、という問いと、何をすれば理性的であったと言えるか、という問いを別の問題として扱えるようになるのだ。


道徳的な「べし」

以上、決定的な理由を含意する「べし」と理性的な「べし」について整理してきた。

重要なのは、これらを道徳的な「べし」と混同しないことである。


決定的な理由を含意する意味でなすべきことが道徳的な意味でなすべきこととは限らない、というのは良いだろう。先ほどのクマの例でも、私がなすべきことに道徳という要素は一切なかった。


では、道徳的な意味でなすべきことが決定的な理由を含意する意味でなすべきことでもあるのだろうか。

これは伝統的に、なぜ道徳的であるべきか(Why be moral?)、という形で論じられてきた問題であり、別途論じられるべきことだ。


道徳については、「理由」について十分論じた後でまた詳しく検討する、とパーフィットは言っている。それまでは、「べし」について道徳的な含意を勝手に読み取らないように気をつけなければならない。


まとめ

  • われわれが、ある仕方で行動すべき決定的な理由を持つとき、その行動は決定的理由を含意する意味でなすべきことである

  • 重要な事実についてわれわれの持っている信念が真であればある行動をする決定的な理由を与えるとき、その行動は理性的になすべきことである

  • 重要な事実について、われわれが不十分なことしか知らなかったり誤った信念を抱いているときは、決定的理由を含意する意味でなすべきことと、理性的になすべきこととが異なる場合がある

  • 決定的理由を含意する意味でなすべきことや理性的になすべきことを、道徳的になすべきことと混同してはならない


前回同様、なかなか細かい内容を扱う記事になってしまった。しかし、最初はまず基礎的な概念を定義・説明することから始めなければならないので、そうなるのも仕方がないだろう。